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慶長19年 1614年 12月12日
徳川家康が天満(摂津国)より備前島に視察に赴く。未刻(13-15時)に戻る。
未刻(13-15時)、大坂城(摂津国)に籠城中の織田有楽大野治長より家康のもとに書状が届く。後藤光次が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月12日
未刻(13-15時)、大坂城(摂津国)に籠城中の織田有楽大野治長より家康のもとに書状が届く。後藤光次が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日
徳川秀忠の使者として土井利勝徳川家康のもとに到着する。大雨につきご機嫌うかがいをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日
徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日
徳川家康浅野長晟山内忠義に船場の堀川に舟橋を架橋するように命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月14日
徳川秀忠の使者として板倉重宗徳川家康のもとに到着する。大雨につきご機嫌うかがいをする。
阿茶局が見舞いとして家康の陣所である茶臼山に到着する。
藤堂高虎が家康と雑談する。
夜、南部利直が薫陸を家康に献上する。安藤直次、興安が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月15日
徳川義俊徳川頼宣徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月15日
徳川家康後藤光次豊臣秀頼との和睦のことを問う。光次は、大坂城(摂津国)の城内におていは淀殿が最終決定権を有しており、女性ゆえか、万事急がない様子だと回答する。また、返事を引き延ばそうとしているのではないかとの意見も提示する。なお光次は、淀殿を江戸(武蔵国)に人質として置くこと、秀頼が抱えた牢人衆に知行を与えるべく加増するかどうかを尋ねる。家康は牢人衆召し抱えのための加増は考えていないと返事する。また、返事が遅いのは、大坂城攻め衆を疲れさせる狙いや城内に壁や堀を整えるため、占いによると来年は秀頼にとって吉年だからではないかとする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月15日
徳川秀忠の使者として安藤重信徳川家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日
徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日
巳刻(9-11時)、徳川秀忠徳川義俊徳川頼宣が岡山の陣所より徳川家康の陣所に赴く。その場に本多正信本多正純藤堂高虎も赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日
阿茶局が徳川家康徳川秀忠と密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日
徳川家康が松平丹波守、松平周防守、加藤明成と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日
徳川家康南光坊天海金地院崇伝と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日
八条宮智仁親王・伏見宮邦清親王・二条昭実の使者が徳川家康のもとに到着する。家康に毛氈・酒・菓等を献じる。西尾丹波守が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日
仁和寺宮・梶井宮・青蓮院宮の使者が徳川家康のもとに到着し、酒・菓・餅を献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日
徳川家康が清凉院と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日
徳川家康が高台寺と対面する。高台寺は蜜柑を献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日
蜂須賀至鎮の使者が徳川家康のもとに到着し、16日の深夜、豊臣方の大将として塙直之が本町橋の至鎮の陣所を夜襲したので至鎮は応戦し、直之を退けたことを報告する。家康は状況把握のため板倉重昌を遣わす。午刻(11-13時)、至鎮は家康に対面し、至鎮に感状を、稲田示植植次父子に感状・腰刀を、その他のものに服・黄金を下賜する。また博労ヶ淵の戦いで戦功のあった森甚大夫、森藤兵衛、広瀬加左衛門、森長左衛門等10人にも黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日
藤堂高虎徳川家康と合戦の時は陣屋に留守居を置き、後陣が狼藉をしないようにすべきと雑談していたところ、高虎の後陣である徳川義俊勢の成瀬正成が反論し、先陣が入城の時には後陣は堀際にて旗を立て様子を伺っており狼藉することはないと述べる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日
徳川家康松平忠直と対面する。本多正純土井利勝が取り次ぐ。忠直の成長を見て、徳川秀忠が忠直を重宝していることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日
徳川家康伊達政宗と対面する。徳川勢の仕寄の図をみながら雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日
片桐且元が咳病を患う。徳川家康が且元のもとに興安を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日
加藤忠広徳川家康に八代蜜柑5箱を献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日
徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日
勅使の広橋兼勝・三条実條が徳川家康のもとに到着する。寒天につき家康が上洛するか、和睦するかを尋ねるもので、日野唯心以心崇伝を介し家康に問う。家康は上洛せず在陣し、和睦はしないと返答する。和睦をしない理由は、もし和睦が成立しなかった場合、「天子命」が軽んぜられることになるためとする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日
常高院が大坂城(摂津国)より出て、京極忠高の陣所に赴く。阿茶局、本多正純が忠高の陣所に赴き、申刻(15-17時)、阿茶局・正純が徳川家康のもとに戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日
徳川家康榊原康勝に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日
夕方、徳川秀忠の使者として水野忠元徳川家康のもとに到着し、家康に開口魚を献じる。家康は鶴を秀忠に贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日
安藤重信が河堤の築料について徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

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