人 物 史

山科言緒 やましな ときお
生 没 年天正5年(1577)2/21-元和6年(1620)2/25
出 身-幼 名阿茶丸
別 称-
法 名-
戒 名-
山科言経-
兄 弟 姉 妹山科言緒、山科教遠
配 偶 者-
-
官 位内蔵頭、右近衛権少将、右近衛権中将、参議
氏 族 門 流-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる山科言緒の呼称
山科言緒 年表
天正5年 1577年 2月21日 1歳
山科言緒が生まれる。
出典:『諸家伝』

天正7年 1579年 3月2日 3歳
山科言経薄諸光兄弟が山科言継のもとに夕飯に赴く。夕食中、言継の心臓が痛み、一度は落ち着くが、言継は死去する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月13日 6歳
山科言経の妻と山科阿茶丸北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月21日 6歳
革堂山科言経山科阿茶丸父子が参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 4月12日 6歳
安楽光院小路の塩風呂に山科言経、大炊御門経頼、冷泉為満阿茶丸が入る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月11日 9歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 16歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 2月6日 17歳
正親町上皇が崩御する。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 20歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 22歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月15日 24歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長8年 1603年 2月12日 27歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 4月6日 27歳
徳川家康が能を催す。山科言緒冷泉為満、四条隆昌、水無瀬氏成、烏丸光広が訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 5月5日 27歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に冷泉為満山科言緒、六条有広、四条隆忠、舟橋秀賢が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 5月26日 27歳
冷泉為満山科言緒舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れ対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 4月11日 28歳
夜、本願寺教如の娘が花山院忠長に嫁ぐ。冷泉為満山科言緒舟橋秀賢が婚儀を見物する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 10月2日 28歳
山科言緒舟橋秀賢が西本願寺に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 10月10日 28歳
禁裏にて能を催す。大夫は下間仲孝。後陽成天皇、女院、妙法院常胤、聖護院興意、八条宮智仁親王、近衛信尹一条内基、鷹司信尚、万里小路充房、万里小路兼房、山科言経山科言緒持明院基孝、持明院基久、中院通勝、勧修寺光豊、白川雅朝、白川顕成、高倉永高、高倉永慶、鷲尾隆尚、水無瀬氏成、水無瀬兼俊、五辻兼俊、阿野実顕、四辻季継、富小路秀直、猪熊教利、平時直、難波宗勝、小川坊城俊昌、飛鳥井雅賢、滋野井冬隆、甘露寺豊長、中御門宣衡、高倉嗣良、竹内孝治、藤波種忠、舟橋秀賢が参会する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 29歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長16年 1611年 2月27日 35歳
父・言経が死去する。
出典:-

慶長16年 1611年 10月1日 35歳
山科言緒舟橋秀賢冷泉為満駿府城(駿河国)に到着し、徳川家康のもとを訪れる。3名は家康に謁し、秀賢が家康に諸家略系図、屏風1隻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月2日 35歳
駿府城(駿河国)にて山科言緒舟橋秀賢冷泉為満、円光寺、金地院崇伝徳川家康に召され饗食を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月6日 35歳
徳川家康日野唯心に米50石、水無瀬一斎に米80石、山科言緒舟橋秀賢冷泉為満に黄金1枚・被物2領を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月21日 35歳
江戸城(武蔵国)の南庭にて能10番が催される。徳川家康徳川秀忠山科言緒冷泉為満舟橋秀賢等が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 38歳
六条有慶、冷泉為満山科言緒徳川家康に対面する。金地院崇伝が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 39歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 40歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和6年 1620年 2月25日 44歳
山科言緒が死去する。
出典:『公卿補任』、『土御門泰重卿記』同年月日条

元和6年 1620年 3月6日 
午刻(11-13時)、山科言緒の葬儀が執り行われる。
出典:『孝亮宿禰日次記』同年月日条

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