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慶長19年 1614年 11月6日
加藤明成徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月6日
毛利宗瑞の使者として宍戸元続徳川家康に愛面する。ともに本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月6日
豊臣勢が天王寺(摂津国)を焼き討ちする。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月7日
辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長19年 1614年 11月8日
南光坊天海二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。薬樹院・竹林坊が家康に出仕する。日野唯心金地院崇伝、公家衆が家康のもとに出仕する。
家康が園城寺(近江国)寺僧、法泉院、光浄院を召し出し、崇伝をもって、本覚坊から訴えのあった照高院道勝による関東調伏の件を尋ねる。園城寺僧は本覚坊は不義僧で、最近は大徳寺(山城国)を徘徊しており、照高院道勝と園城寺僧と関係が悪く、ゆえにこの訴えのような虚説を述べているという。以前、園城寺は聖護院・実相院・円満院の三門跡で管理していたが、豊臣秀吉の命により聖護院一人による管理となったため、近年は照高院道勝と園城寺の関係は悪い。したがって照高院道勝と園城寺が一体となって関東調伏をすることはありえないと回答する。この回答をうけ、本覚坊を呼び出し反論がないか確かめるようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月9日
徳川家康南光坊天海金地院崇伝を召し出し雑談する。諸家記録の写本を作成する件で、『日本後紀』、『弘仁貞観格式』、『類聚国史』、『類聚三代格』は仙洞御所に所蔵されているのか家康が問う。天海は仙洞御所所蔵h本の書写してもよいとの許可を得たことをを報告する。林羅山は『扶桑略記』を閲覧し、平将門・藤原純友の謀反が詳しく記載されていたことを話す。
達磨寺(摂津国)に制札を下付する。担当は本多正純
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月9日
徳川秀忠が膳所(近江国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月10日
徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月10日
後陽成上皇が徳川家康に『類聚三代格』6巻、聖武天皇より後一条天皇までの年代略11巻、『類聚国史』2巻、『古語拾遺』、『名法要集』、『神皇系図』を南光坊天海を院使として渡す。夜、家康はそれらの書物を林羅山に読ませる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月10日
本多正信名古屋(尾張国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月11日
午刻(11-13時)、徳川秀忠伏見城(山城国)より徳川家康のいる二条城(山城国)に赴き、奥御座間にて対面する。秀忠は家康に到着を待ってくれたことを謝す。
家康は本多正純成瀬正成安藤直次板倉勝重酒井忠世土井利勝安藤重信を召し出し、13日に大坂城(摂津国)に向かうべく、二条城を発つことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月11日
徳川家康松平忠利・伊奈忠政に神崎の鳥養辺りの堤防を崩し、河川の水を決壊させるように命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月11日
申刻(15-17時)、伊達政宗徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月11日
豊臣秀頼に捕縛されていた今井宗薫・宗呑父子が、同城より脱出し、徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月12日
徳川義俊二条城(山城国)を出立する。八幡(山城国)もしくは木津川(山城国)に宿する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月条

慶長19年 1614年 11月12日
上杉景勝佐竹義宣二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月条

慶長19年 1614年 11月12日
夜、天海以心崇伝徳川家康に出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月条

慶長19年 1614年 11月12日
13日に予定されていた徳川家康の出陣が、13日は南行きが「悪日」のため、15日に延期となる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月条

慶長19年 1614年 11月13日
徳川秀忠の使者として土井利勝伏見城(山城国)より二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き密談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月13日
申刻(15-17時)、徳川家康二条城(山城国)の南殿に赴く。細川興元、新庄直定・直好父子、土方雄重等と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月13日
徳川家康が大坂(摂津国)に遣わした物見の横田尹松、山城忠久が、夜、家康のもとに戻る。大坂城(摂津国)攻めの天王寺(摂津国)方面の先陣が城より14・15町のところまで押し寄せていることを報告する。家康は、秀忠の命が出る以前に攻め込むことを堅く禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月14日
朝、本多正信が永原(近江国)より伏見城(山城国)に到着する。その後、正信は二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。正信は関東・東北の徳川方諸勢が品川(武蔵国)にいることを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月15日
卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月15日
南部利直が軍勢とともに伏見城(山城国)に到着し、徳川秀忠に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長19年 1614年 11月16日
徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月16日
向井忠勝・向井正通・向井正俊率いる軍勢600の船団が伝法(摂津国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月17日
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月25日
徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月19日
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

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