慶長20年 1615年 2月28日 |
池田家の飛脚が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、22日に池田忠継が死去したことを徳川家康に伝える。取次は本多正純。家康は驚き、愁傷する。家康は忠継の兄・池田利隆と忠継の舅・森忠政のもとに森可澄を遣わし、備前国の仕置きをするように命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 2月28日 |
最上家親が家康に対面する。家親は蝋燭を献上する。家親の家老・坂上紀伊守が家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 2月29日 |
村上忠勝、溝口宣勝が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 2月-日 |
向井忠勝が250石の加増を受ける。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井忠勝」の項 |
慶長20年 1615年 3月1日 |
徳川家康が駿府城(駿河国)の南御殿に出座する。日野唯心等が出仕する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月2日 |
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。利勝は家康と密談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月3日 |
徳川家康が駿府城(駿河国)の南御殿に出座する。日野唯心等が出仕する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月5日 |
筒井定次・順定父子が切腹する。 |
出典:- |
慶長20年 1615年 3月13日 |
豊臣秀頼の使者として常光院、二位局、大蔵卿、正永尼、青木一之が駿府(駿河国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月14日 |
奥平信昌が死去する。 *『駿府記』では3月12日死去と記載されている。 |
出典:『駿府記』同年月18日条 |
慶長20年 1615年 3月14日 |
徳川家康の使者として阿茶局、本多正純が、駿府(駿河国)滞在中の常光院等のもとに遣わされ、15日に駿府城(駿河国)に登城するように伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月15日 |
豊臣秀頼の使者として、青木一重が駿府城(駿河国)南御殿にて徳川家康と対面する。秀頼の進物として金襴10巻と秀頼の書状を、一重の礼物として鷹のうちつき蒔絵10枚を家康に献上する。常光院、二位局、大蔵卿局、正永尼が淀殿の使者として家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月16日 |
京都より板倉重昌が駿府城(駿河国)に戻る。京都・大坂の様子を徳川家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月17日 |
京都(山城国)より領国に帰国中の伊達政宗が駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。政宗は太刀・馬を家康に献上する。家康は政宗に盃を賜う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月18日 |
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。 奥平家よりの飛脚が家康のもとに到着し、奥平信昌の死去を伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月19日 |
金地院崇伝、林羅山が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康より収集の命があった書籍が、後に到着することを報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月20日 |
蜂須賀蓬庵が駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月24日 |
大野治長の家臣・米村権右衛門が駿府(駿河国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月25日 |
府中(駿河国)にて伊勢踊と称し諸人が風流踊りをする。伊勢国から始まり陸奥国まで踊り歩くという。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月26日 |
成瀬正成が徳川義俊と浅野幸長の娘の祝言につき名古屋(尾張国)に赴く。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 3月29日 |
徳川秀忠の使者として井上正就が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月2日 |
浅野長晟が家中の軍役を定める。 |
出典:同年月日付浅野長晟判物(『浅野家文書』119号) |
慶長20年 1615年 4月2日 |
常光院、二位局、大蔵卿、正永尼が名古屋(尾張国)に赴く。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月2日 |
片桐且元が駿府城(駿河国)のいる徳川家康と対面する。且元は駿府(駿河国)に居所を移す。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月3日 |
徳川家康が、4日に子・義俊と浅野幸長の娘の祝言に出席すべく、名古屋(尾張国)に向けて駿府城(駿河国)を出立する旨を示す。ただし名古屋行きは、豊臣秀頼が、牢人衆を追放せず、むしろ武勇の誉れ高き者を召し抱えているとの噂があり、名古屋からそのまま上洛するためとされる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月4日 |
藤堂高虎勢が淀(山城国)に陣取る。 |
出典:『藤堂家覚書』 |
慶長20年 1615年 4月4日 |
午刻(11-13時)、徳川家康が名古屋(尾張国)に向けて駿府城(駿河国)を出立する。申刻(15-17時)、田中(駿河国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月5日 |
大野治長の使者が田中(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。使者は、豊臣秀頼・淀殿が大坂からの国替を拒否していることを家康に伝える。家康はその返答を受け、どうしようもないことであると返答する。 家康のもとに伏見町奉行・長田喜兵衛の書状が到来する。永井直勝、後藤光次が喜兵衛の書状の内容を家康に報告する。喜兵衛は大坂(摂津国)が殊の外物騒で、その影響は京都・伏見(山城国)にも及んでいると伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月6日 |
辰刻(7-9時)、徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。徳川秀忠の使者として板倉重宗が家康のもとに到着する。重宗は家康の道中のご機嫌伺いのため遣わされる。家康は本多正純を通じて、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国の諸大名に軍勢を、伏見・鳥羽(山城国)まで進めるよう命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月6日 |
大坂城(摂津国)攻めにつき、井伊直孝勢が彦根城(近江国)より出陣する。 |
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |