慶長20年 1615年 4月7日 |
大坂城(摂津国)攻めにつき、石川忠総勢が大垣城(美濃国)より出陣する。 |
出典:『石川忠総家臣大坂陣覚書』 |
慶長20年 1615年 4月7日 |
徳川家康が浜松(遠江国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月8日 |
大坂城(摂津国)攻めにつき、石川忠総勢が大垣城(美濃国)より出陣する。 |
出典:『石川忠総家臣大坂陣覚書』 |
慶長20年 1615年 4月8日 |
徳川家康が吉田(三河国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月9日 |
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。 |
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長20年 1615年 4月9日 |
徳川家康が岡崎(三河国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月9日 |
夜、大野治長が弟・大野治房の従者に左脇を脇差にて刺され負傷する。 |
出典:『駿府記』同年月12日条 |
慶長20年 1615年 4月10日 |
徳川家康が名古屋(尾張国)に到着する。名古屋にて家康は常光院、二位局、大蔵卿局、正永尼、青木一重と対面し、豊臣秀頼・淀がいまだに牢人衆を追放せず召し抱えていることに憤っている旨を伝える。常光院、二位局はすぐに大坂に戻り、家康の意を伝えると返答する。大蔵卿、正永尼、一重は京都にて家康の上洛を待つ旨を伝える。これらの女中の動きについて、家康は後藤光次を通じて板倉勝重に伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日・17日条 |
慶長20年 1615年 4月10日 |
徳川秀忠が豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。 江戸城の留守居に酒井重忠を置く。 |
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項 |
慶長20年 1615年 4月10日 |
徳川秀忠が豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。供奉衆:野呂守景、米倉信継、木内蕃正、津金胤卜、酒依昌吉。江戸城の留守居に酒井重忠を置く。 |
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同173「津金胤卜」の項、同174「酒依昌吉」の項、同963「木内蕃正」の項、同1153「野呂守景」の項 |
慶長20年 1615年 4月12日 |
浅野幸長の娘が熱田(尾張国)より徳川義俊のもとへ輿入れする。幸長の娘の供奉輿50、女中43名、長持300棹に及ぶとされる。幸長の娘は、義俊に銀子200枚・服10領を、義俊の母に銀子100枚・服10領を献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月12日 |
豊臣秀頼が牢人へ金銀を配り、武具の用意を命じる。 |
出典:『駿府記』同年月16日条 |
慶長20年 1615年 4月13日 |
織田有楽・尚長父子が名古屋(尾張国)にいる徳川家康のもとを訪れる。長益・尚長は、豊臣秀頼の軍勢の状況について、牢人衆を三手に分け、大野治長・後藤基次で一手を、木村重成・渡辺糺・真田信繁・明石全登で一手を、大野治房・長宗我部盛親・毛利勝永・仙石秀範で一手をなしていることを伝える。 家康は、14日の昼には桑名(伊勢国)に赴くことを事前に伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月14日 |
雨のため徳川家康の桑名(伊勢国)行きは延期となる。 家康は、子・徳川義俊の祝言につき、名古屋城(尾張国)の本丸に赴き、祝う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月14日 |
徳川秀忠が清水(駿河国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月17日条 |
慶長20年 1615年 4月15日 |
巳刻(9-11時)、徳川家康が名古屋城(尾張国)を出立する。佐屋(尾張国)にて船に乗り、申刻(15-17時)、桑名(伊勢国)に到着する。 夜、本多忠朝が家康に対面する。忠朝は徳川秀忠勢の先手として上洛する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月16日 |
徳川家康が亀山(伊勢国)に到着する。家康のもとに板倉勝重の飛脚が到着し、大坂(摂津国)の情勢について、12日に豊臣秀頼が牢人へ金銀を配り、武具の用意を命じた報告する。 徳川義俊が名古屋城(尾張国)を発し、桑名(伊勢国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月17日 |
徳川家康が水口(近江国)に到着する。徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着し、10日に秀忠が江戸城(武蔵国)を発ったこと、14日に清水(駿河国)に到着したこと、23・24日には京都(山城国)に到着するので、それまでは合戦を控え、秀忠には先陣を命じることを伝える。 安藤直次、成瀬正成の飛脚が家康のもとに到着し、徳川頼宣勢は永原(近江国)に、徳川義俊勢は土山(近江国)に到着したことを伝える。 松平忠直勢が坂本(近江国)に陣取ったとの報告が家康のもとにもたらされる。家康は忠直勢に18日には西岡・向明神(山城国)辺りに進軍するよう命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月18日 |
徳川家康が水口(近江国)を出立し、矢橋(近江国)、大津(近江国)、膳所(近江国)を経由する。大津から膳所の船中で、が家康に膳を献じる。午刻(11-13時)、船を下船する。山科(山城国)辺りで公家衆や京都の町衆が出迎え、未刻(13-15時)、二条城(山城国)に到着する。 徳川義俊、徳川頼宣が京都に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月19日 |
徳川家康が大野治純を召し、治純の兄・治長が4月12日に負傷したことについて、怪我の軽重や犯人を調査し、犯人が判明した罪科に処すことを言い含めたうえで大坂(摂津国)へ赴かせる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月20日 |
黒田長政、伊達政宗、加藤嘉明が東福寺不二庵に到着する。同庵に長政の妻、娘・とく、子・犬万、子・万吉が合流する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」 |
慶長20年 1615年 4月20日 |
黒田長政、伊達政宗、加藤嘉明が東福寺不二庵に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」 |
慶長20年 1615年 4月21日 |
徳川秀忠が伏見城(山城国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月22日 |
徳川秀忠が伏見城(山城国)を発ち、二条城(山城国)にいる徳川家康と密談する。本多正信、土井利勝、本多正純が加わる。申刻(15-17時)、秀忠は伏見城に戻る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月24日 |
徳川家康が、豊臣秀頼・淀殿への使者として常光院、二位局を遣わし、三ヶ条の書付を遣わす。また、大蔵卿局、正永尼に大坂城(摂津国)に戻るよう命じ、両名は、朝、大坂に戻る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月25日 |
大坂城(摂津国)攻めにつき、黒田長政が福岡城(筑前国)の留守居である井上之房、栗山利安、黒田一成、桐山信行、黒田利長、菅正利に、軍勢10000にて出陣すること、15日分の兵粮・飼料を用意すること、上方にての兵粮奉行は毛利又左衛門とすること、玉薬・鉄砲奉行は勝野伊右衛門・高岡権太夫・倉八兵衛とすること、火矢奉行は都筑十兵衛とすること、楯の板しやく木奉行には山本兵右衛門・庄野半太夫・小西助之允とすること、大鋸喜兵衛・しやくわん喜左衛門・鍛冶10名・伴彦兵衛・松本五右衛門・馬杉喜右衛門をともなうこと、鉄100貫目を持参すること、福岡城の留守居は毛利左近・母里友信・手塚水雪・菅正利とすること、領内に関所を設け人の出入りを改めること、黒田徳松を福岡城番に加えること命じる。 |
出典:『菅氏世譜』 |
慶長20年 1615年 4月25日 |
徳川秀忠の使者として、土井利勝、安藤重信が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。家康は両名に4月26日に秀忠へ二条城を参るように言い渡す。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月26日 |
徳川秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月27日 |
徳川家康の使者として本多正純が伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 4月28日 |
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。 申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、堺(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。 |
出典:『駿府記』同年月日・29日条 |