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慶長20年 1615年 1月6日
辰刻(7-9時)、徳川家康が亀山(伊勢国)を出立する。道中、山のしげる箇所があったため、家康は日向半兵衛、島田直時に命じ鉄砲衆200人を山に入れ敵がいないか探索させる。申刻(15-17時)、桑名(伊勢国)に到着する。桑名城(伊勢国)城主の本多忠政大坂城(摂津国)の堀・櫓破却につき不在のため、留守居の者が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月7日
卯刻(5-7時)、徳川家康桑名(伊勢国)より船に乗る。道中、鷹狩をして、申刻(15-17時)、名古屋(尾張国)に到着する。名古屋城(尾張国)城主の徳川義俊大坂城(摂津国)の堀・櫓破却につき不在のため、留守居の藤田民部少輔、原右衛門が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月8日
徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。卯刻(5-7時)、鷹狩に赴き、申刻(15-17時)に戻る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀埋め普請について、諸勢をもってあたるといえども、二ノ丸の堀の幅が40-60間、深さが3-4間があってすぐには完了しないことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月9日
辰刻(7-9時)、徳川家康名古屋(尾張国)を出立する。道中を鷹狩をする。申刻(15-17時)、岡崎(三河国)に到着する。岡崎城(三河国)城主の本多康紀大坂城(摂津国)の堀・櫓破却につき不在のため、留守居の者が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月10日
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
徳川秀忠の使者・永井尚政が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の堀埋めについて進捗状況を報告する。16・17日には大方堀埋めが完了することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月11日
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月12日
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月13日
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
最上家親の使者として坂上紀伊守が家康のもとに到着する。家親の進物として白鳥2羽、黒馬1匹、最上漬蓼1桶を、紀伊守の進物として子籠鮭10尺を家康に献上する。家康は紀伊守を召し寄せ、家親は律儀につき安心して江戸城(武蔵国)の留守居を任せられると紀伊守に述べる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月14日
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月15日
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月15日
未刻(13-15時)、桑名(伊勢国)にて火災が起こり、桑名町300間余と本多忠政の米蔵7ヶ所、材木蔵1ヶ所が焼失する。火災は戌刻(19-21時)に収まる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月15日
埋め立てていた大坂城(摂津国)の船場口の船入が入潮により元の通りとなる。
諸勢3人扶持役として土俵1つずつを大坂城の二ノ丸の堀向いに置く。
出典:『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月15日
長谷川藤広が堺代官となる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月15日
堤により天満川が堰止められたままの状態のため、西国からの船の出入りができないため、このままであれば商売ができないと町人が迷惑をする。
出典:『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月16日
徳川義俊徳川頼宣が上洛する。
出典:『駿府記』同年月18日条

慶長20年 1615年 1月16日
美濃国近江国にて大雪が降り、120cmの積雪がある。
出典:『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月17日
徳川秀忠が佐竹家家臣の戸村義国、梅津憲忠、信太勝行、大塚資郷、黒澤道家を召し感状を下す。義国には刀・青江直次、憲忠には刀・信国、勝行・資郷・道家には時服2領・羽織1領を下賜される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康勝」の項、『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長20年 1615年 1月17日
美濃国近江国にて大雪が降り、120cmの積雪がある。
出典:『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月18日
岡山にいる徳川秀忠の使者として青山重政が徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸までの堀埋め普請が完了し、本城のみ残ったことを報告する。秀忠は19日に伏見城(山城国)に移る予定であることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日
申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月20日
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月21日
徳川家康が鷹狩をする。
家康のもとに徳川秀忠の使者が到着する。秀忠の使者は、秀忠が19日に大坂(摂津国)より伏見城(山城国)に入ったこと、大坂城(摂津国)の堀埋め普請がおおよそ完了したことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月21日
辻久吉が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第398「辻久吉」の項

慶長20年 1615年 1月22日
徳川家康が鷹狩をする。
家康のもとに徳川秀忠の使者として成瀬正武が到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月23日
徳川家康のもとに豊臣秀頼の使者として吉田玄蕃允が到着する。秀頼より小夜着物3、蒲団3、蒔絵枕、紅梅枕掛を、大野治長より羽二重10疋を、玄蕃允より鷹緒10筋を家康に献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月22・23日
が疱瘡を患う。
出典:『駿府記』同年月30日条

慶長20年 1615年 1月24日
徳川家康のもとに、大坂(摂津国)より安藤直次が到着する。家康は直次に大坂城(摂津国)の堀埋め普請のことを問う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月24日
未刻(13-15時)、徳川秀忠伏見城(山城国)より二条城(山城国)に移る。参内する。
出典:『駿府記』同年月26日条

慶長20年 1615年 1月25日
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

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