人 物 史

林羅山 はやし らざん
生 没 年天正11年(1583)-明暦3年(1657)1/23
出 身山城国四条新町幼 名菊松丸
別 称又三郎、信勝
法 名道春
戒 名-
林信時、林吉勝[養父]田中氏の娘
兄 弟 姉 妹林羅山
配 偶 者羽田至政の娘
林叔勝、林長吉、林鵞峰、林守勝、娘(荒川宗長)
官 位民部卿法印
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第5輯 刊本
関 連 デ ー タ-
林羅山 年表
天正11年 1583年 -月-日 1歳
林羅山が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第770「林信勝」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第770「林信勝」の項

文禄1年 1592年 12月8日 10歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 14歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 16歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 21歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 23歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長18年 1613年 10月19日 31歳
卯刻(5-7時)、江戸城(武蔵国)本丸にて、本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次林羅山に料理が振る舞われる。
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が江戸城の新城に赴き、南光坊天海の論議を聴聞する。題は我功徳力、如来加持力、法界力、三具足をもって即身成仏となす。
夜、石川康長の日頃の不義が露見し、また大久保長安に縁座し所領没収となる。康長の所領没収につき、小笠原秀政松本城(信濃国)を請取のため、同城に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項

慶長19年 1614年 7月14日 32歳
徳川秀忠が父・家康に定家自筆『伊勢物語』を贈る。土井利勝が持参する。林羅山は家康に読み聞かせをする。この本は後土御門天皇の御物で、畠山義総三好長慶と伝わり、三好家没落後は堺(和泉国)にあったが、細川藤孝が入手し、松平忠吉が藤孝に所望して入手し、忠吉没後は秀忠に進上されたものとされている。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月27日 32歳
南光坊天海駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康に天台法問の伝授をする。
成瀬正武が江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
家康が『晋書』、『玉海』、『朱子大全』、『大学衍義補』、『二程全書』、『文章弁礼』、『文章正宗』、『李白詩集』、『東莱南軒集』等の書籍30冊を江戸に送る。いずれも江戸の文庫に無い書籍で、林羅山が移送を担当する。
家康が佐野信吉の所領を改易する。信吉の兄・富田信高が勘気を蒙り所領改易となったことの連座とされる。信吉の身柄は小笠原秀政が預かる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項

慶長19年 1614年 8月2日 32歳
中井正清駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の鐘の銘文を送る。銘文の筆者は東福寺(山城国)の清韓で、家康は「国家安康」の語をはじめ文章に不快感を示す。銘文の写しを作成し、徳川秀忠に送る。担当は林羅山
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月18日 32歳
板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月9日 32歳
徳川家康南光坊天海金地院崇伝を召し出し雑談する。諸家記録の写本を作成する件で、『日本後紀』、『弘仁貞観格式』、『類聚国史』、『類聚三代格』は仙洞御所に所蔵されているのか家康が問う。天海は仙洞御所所蔵h本の書写してもよいとの許可を得たことをを報告する。林羅山は『扶桑略記』を閲覧し、平将門・藤原純友の謀反が詳しく記載されていたことを話す。
達磨寺(摂津国)に制札を下付する。担当は本多正純
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月10日 32歳
後陽成上皇が徳川家康に『類聚三代格』6巻、聖武天皇より後一条天皇までの年代略11巻、『類聚国史』2巻、『古語拾遺』、『名法要集』、『神皇系図』を南光坊天海を院使として渡す。夜、家康はそれらの書物を林羅山に読ませる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月26日 32歳
金地院崇伝林羅山徳川家康に命じられていた記録の内、旧事紀、古事記、続日本紀、文徳実録、三代実録、江次第、明月記、続文粋、菅家文集、西宮記、釈日本紀、内裡式、山槐記、類聚三代格等を献じる。
夕方、片桐且元が家康に対面する。板倉勝重が同席する。
家康が廓山と仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月19日 33歳
金地院崇伝林羅山駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康より収集の命があった書籍が、後に到着することを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月30日 33歳
徳川家康二条城(山城国)の前殿に出座する。金地院崇伝南光坊天海、智積院、勧学院が侍る。林羅山が駿府(駿河国)より持参した新板大蔵経を見物する。文字の鮮明さを皆が称える。印刷した125部の1部ずつを諸寺に配布するよう家康が命じる。
天海が天台宗以外の僧が紫衣を着するのを禁じ、僧正にも任じないようにすべきと家康に進言する。これを聞き多聞院が、家康にそのようなことを進言するのは控えるべきとし、すでに空海が紫衣を着しており、また高野山、東寺、醍醐寺の僧は僧正に任じられた僧がすでにおり、昔からそれが続いていると反論する。天海がその反論に口を閉ざす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月9日 33歳
金地院崇伝が久遠寺(甲斐国)より取り寄せた『本朝文粋』2部について、それを五山僧に書写させていたが、第1巻に不足のところがあったためが、林羅山が京都(山城国)にて同書を探し出し、久遠山本を補う。徳川家康は羅山の働きを賞す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 33歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 34歳
徳川家康が死去する。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 42歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
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寛永9年 1632年 1月24日 50歳
徳川秀忠が死去する。
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正保1年 1644年 12月16日 62歳
「寛永」より「正保」に年号が改まる。
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慶安1年 1648年 2月15日 66歳
「正保」より「慶安」に年号が改まる。
出典:-

承応1年 1652年 9月18日 70歳
「慶安」より「承応」に年号が改まる。
出典:-

明暦1年 1655年 4月13日 73歳
「承応」より「明暦」に年号が改まる。
出典:-

明暦3年 1657年 1月23日 75歳
林羅山が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第770「林信勝」の項

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