慶長20年 1615年 4月-日 |
向井忠勝が軍勢700を率い尼崎(摂津国)に到着する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井忠勝」の項 |
慶長20年 1615年 4月29日 |
徳川秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談し、3日に京都より出陣することを決す。 |
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条 |
慶長20年 1615年 4月29日 |
浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。 巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇、亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。 |
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条 |
慶長20年 1615年 4月29日 |
向井忠勝が堺にて火の手が上がったのをみて、尼崎(摂津国)より堺に向けて出航し、大野治房勢と戦う。この戦いで忠勝は船上にて敵の砲撃を受け胸を負傷し、尼崎に戻って療養する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井忠勝」の項 |
慶長20年 1615年 4月30日 |
徳川家康が樫井合戦での浅野長晟の働きを賞す。 |
出典:同年月日付徳川家康黒印状(『浅野家文書』118号) |
慶長20年 1615年 5月1日 |
徳川家康が諸大名に対面し、5月3日に出陣することを伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 5月1日 |
徳川秀忠が樫井合戦での浅野長晟の働きを賞す。 |
出典:同年月日付徳川秀忠黒印状(『浅野家文書』117号) |
慶長20年 1615年 5月2日 |
井伊直孝が沙に陣取る。 |
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長20年 1615年 5月2日 |
浅野長晟の使者が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着し、4月29日の柏野(和泉国)の合戦の絵図・記録および大野弥五左衛門の首を進上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 5月3日 |
細川忠興が花隈(摂津国)に着陣する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」の項、『綿考輯録』巻19 |
慶長20年 1615年 5月3日 |
徳川家康、徳川秀忠の大坂城(摂津国)への出陣が予定されていたが5月5日に延引となる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 5月4日 |
榊原康勝、小笠原秀政、保科正光、藤田忠季が須奈村(河内国)に陣取る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項 |
慶長20年 1615年 5月4日 |
本多正純、金地院崇伝が花隈(摂津国)に在陣中の細川忠興に対し、藤堂高虎に加勢するようにと命を下す。 |
出典:『綿考輯録』巻19 |
慶長20年 1615年 5月5日 |
巳刻(9-11時)、徳川家康が二条城(山城国)より出陣する。 二条城留守居衆:松平定勝、青木信安。 家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。 徳川秀忠が伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信、藤堂高虎、土井利勝、安藤重信がその協議に参加する。 小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。 井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。 藤堂高虎勢が千塚に陣取る。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項 |
慶長20年 1615年 5月5日 |
島津家久が大坂(摂津国)に向けて軍勢13000を率い出陣する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項 |
慶長20年 1615年 5月5日 |
黒田忠長勢10000が兵庫(摂津国)に到着する。黒田勢:黒田忠長[大将]、井上之房、菅正利、衣笠景延、桐山信行、栗山利安、竹森次貞、母里友信、吉田長利。 |
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」 |
慶長20年 1615年 5月6日 |
八尾(河内国)にて藤堂高虎と長宗我部盛親が戦う。 藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。 長宗我部勢:長宗我部盛親。 巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝・木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。 徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。 豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。 岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。 徳川勢:榊原康勝。 豊臣勢:木村宗明。 道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明・伊達政宗の徳川勢と後藤基次・薄田兼相・渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。 徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。 豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。 合戦後、徳川家康・徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。 |
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項 |
慶長20年 1615年 5月7日 |
寅刻(3-5時)、徳川秀忠が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。 卯刻(5-7時)、徳川家康が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。 巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・真田信繁・長宗我部盛親・仙石秀範・大野治房・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・伊東長実・中島氏種・野々村雅春・青木一重・速水守久等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。 徳川家康・秀忠勢:松平忠直、酒井忠世、酒井家次、本多忠朝(戦死)、小笠原秀政(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、小笠原忠脩(戦死)、黒田長政、加藤嘉明、松平正久、渥美友重[松平忠直勢]、駒井昌保[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)、小倉吉次、小倉吉正、柳沢元吉、丹羽秀重[丹羽長重勢](戦死)。 豊臣秀頼勢:真田信繁(戦死)、大谷吉治(戦死)、石川康勝(戦死)、細川興秋、渡辺糺[自害]。 未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。 豊臣秀頼が大坂城(摂津国)の天守閣に火をかける。 大野治長の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、本多正純、後藤光次を介し、豊臣秀頼・淀殿の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。 花房正成が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。 |
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同398「小倉吉正」の項 |
慶長20年 1615年 5月7日 |
細川忠興が平野(河内国)に陣取る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」の項 |
慶長20年 1615年 5月7日 |
佐竹義宣が平岡に陣取る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項 |
慶長20年 1615年 5月8日 |
豊臣秀頼は大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿・大野治長・速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝・安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。 申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19 |
慶長20年 1615年 5月-日 |
松前慶広・忠広父子が大坂城(摂津国)攻めに出陣する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項 |
慶長20年 1615年 5月9日 |
徳川秀忠が岡山の陣所を発ち、伏見城(山城国)に入る。大坂城(摂津国)に残されている金銀を調査するため安藤重信、青山忠俊、阿部正次が大坂(摂津国)に残る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 5月10日 |
浅野長晟、蜂須賀至鎮、生駒正俊が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。家康は長晟の信達(和泉国)での戦いを賞し、とりわけ、上田宗箇、亀田高俊、田胡助左衛門の働きを称える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 5月11日 |
蜂須賀蓬庵の従者が、八幡(山城国)辺りにて長宗我部盛親を捕らえる。盛親は二条城(山城国)に移送され、同城の西門に捕縛された状態でさらされる。 午刻(11-13時)、徳川秀忠が二条城に赴き、徳川家康と密談する。申刻(15-17時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 5月12日 |
徳川家康・秀忠が豊臣勢の落人の追捕を諸代官・諸大名に命じる。 豊臣秀頼の娘(7歳)が京極忠高のもとを捜索したところ発見される。秀頼に男子がいることが判明し、捜索するように触れが回る。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 5月13日 |
中川久盛、寺沢広高が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。両名とも、大坂城(摂津国)攻めに間に合わなかったことについて無念の旨を家康に述べる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 5月14日 |
方々より豊臣勢の落人の首が600程、二条城(山城国)に届く。 豊臣秀頼のもとで大坂町奉行をつとめた水原石見守が二条城近辺にて潜伏しているとの訴えがあり、藤堂高虎が石見守の潜伏先に討手を差し向ける。石見守は応戦し、3人を斬るも討ち取られる。石見守の首は二条城の西門にさらされる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 5月15日 |
長宗我部盛親が一条(山城国)より大路(山城国)まで引き回されたうえ六条河原(山城国)にて処刑される。三条河原(山城国)にて首がさらされる。秀頼与同の者72名の首が粟田口(山城国)および東寺(山城国)近辺にてさらされる。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『陰徳太平記』巻50「元親国内巡見付一宮之御事」 |
慶長20年 1615年 5月19日 |
徳川秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康は、近く駿府城(駿河国)">に帰城する旨を秀忠に伝えるが、秀忠は8月までは京都(山城国)に留まり、大坂城(摂津国)攻めの後処理を済ませるよう強く要請する。家康は秀忠の請いを受け入れ8月までは京都に滞在すると返答する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |