地 名 の 歴 史

山城国[国] やましろのくに
初 見-
山城国
葛野郡愛宕郡(山城国)、乙訓郡、紀伊郡、宇治郡、久世郡、綴喜郡、相楽郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社賀茂別雷神社、賀茂御祖神社、石清水八幡宮、松尾神社、平野神社、稲荷神社
寺 院-
城 郭山城国の城郭
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
山城国[国] 年表
治承5年 1181年 閏2月4日 
平清盛が死去する。
出典:-

宝治1年 1247年 8月-日 
清水坂、六波羅蜜寺の門・鎮守社、建仁寺が焼失する。
出典:『歴代編年集成』同年月条

正元1年 1259年 4月27日 
清水寺の本願堂、地蔵堂、小神二社、塔2基、検非違使宿、中門上下向刻階廊、車寄、僧房等が焼失する。観音堂、阿弥陀堂、釈迦堂、地主神社、大門、車宿等は焼失を免れる。
出典:「清水寺文書」

文永11年 1274年 12月-日 
清水寺の本願堂、車宿、西門廊、大門、塔2基が焼失する。観音堂、阿弥陀堂、地主神社は焼失を免れる。
出典:「清水寺文書」

正慶2年 1333年 3月12日 
赤松則村が鳥羽・竹田(山城国)より六波羅探題に攻め入る。
出典:『梅松論』

元弘3年 1333年 6月7日 
後醍醐天皇が大内裏に還幸する。元号を正慶から元弘に戻す。
出典:『関城書裏書』

永禄5年 1562年 3月5日 
久米田(河内国)にて畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 3月6日 
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄7年 1564年 7月24日 
三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄8年 1565年 5月19日 
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 -月-日 
以心崇伝山城国京都にて生まれる。
出典:-

永禄13年 1570年 4月20日 
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月10日 
織田信長が軍勢20000を率い、京都(山城国)を発ち、近江国へ出陣する。三好義継松永久秀等が信長を見送る。信長は志賀(近江国)の城に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正7年 1579年 11月3日 
二条御所(山城国)が竣工する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正10年 1582年 6月2日 
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正12年 1584年 3月4日 
脇坂安元山城国にて生まれる。
出典:-

文禄4年 1595年 7月8日 
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

文禄5年 1596年 7月15日 
木幡山(山城国)を本丸とする伏見城(山城国)の築城が開始する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月7日 
巳刻(9-11時)、前田玄以が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月8日条

慶長7年 1602年 12月4日 
辰刻(7-9時)、方廣寺(山城国)の大仏殿内にて本尊の鋳造が行われるが、鋳造中の本尊より出火し、後光に引火して、大仏殿堂内にも火が回り、午刻(11-13時)、大仏殿が灰燼に帰す。この火災で照高院、鳥辺野の芝が焼ける。妙法院(山城国)、豊国神社(山城国)は災を免れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長8年 1603年 -月-日 
細野藤敦が京都(山城国)にて死去する。
出典:-

慶長10年 1605年 4月17日 
徳川秀忠が上洛する。
出典:『義演准后日記』同年月18日条

慶長10年 1605年 4月26日 
徳川秀忠が征夷大将軍宣下につき参内する。榊原康政康勝父子、酒井忠世板倉重宗が供奉する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康政」の項、同「榊原康勝」の項、同巻第59「酒井忠世」の項、同巻第81「板倉重宗」の項

慶長14年 1609年 2月18日 
田中吉政が伏見(山城国)にて死去する。
出典:-

慶長18年 1613年 12月19日 
徳川家康秀忠父子が、キリスト教徒を追放すべく、大久保忠隣に京都へ赴くよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月19日 
卯刻(5-7時)、後陽成天皇の禁裏の移徙が行われる。
出典:『駿府記』同年月22日条

慶長19年 1614年 1月26日 
前田利光より小田原(相模国)にいる徳川家康のもとに使者が到着する。利光より、高山重友内藤如庵をキリスト教徒により捕らえ、京都所司代の板倉勝重のもとに移送したこと、領内のキリスト教について宗旨替えしない者を記録し、家康の献上したことを、本多正信正純父子を介し家康に報告する。家康より、日本国内のキリスト教徒について、宗旨替えしない者については津軽(陸奥国)に流罪とすることを、正信・正純父子に命じ、両名がその触をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月23-27日 
畿内にて大雨により川の洪水が起こる。京都(山城国)では下京の町末の小家が流される。守口(河内国)では堤が切れる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月19日 
加藤明成駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに礼をする。3年間、腫物のため伊予国に3年間居住し、家康の礼が遅れる。明成は銀100・綿200把・袷衣10領を家康に献上する。本多正純が家康に披露する。この間、加藤嘉明は江戸(武蔵国)に在府する。
板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。五畿内で大雨があり洪水が起こり、賀茂川の堤防が切れ、町家に流れる。また、瀬田橋の板が傾き落ちる。板倉重昌がその旨を家康に伝える。瀬田橋の修復を家康は命じる。
前田利長が死去した旨が家康に伝えられる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月28日 
江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。伊達政宗前田利光の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。本多正純を交え、大坂城(摂津国)にて豊臣秀頼が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条

慶長19年 1614年 9月8日 
本阿弥光味が京都(山城国)にて死去する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月20日 
徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月23日 
卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月25日 
未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 11月3日 
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日 
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月6日 
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

慶長19年 1614年 11月10日 
徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月17日 
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、本多左京、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日 
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月19日 
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月21日 
徳川秀忠の使者として土井利勝安藤重信徳川家康のもとを訪れる。家康は大坂近辺に付城を築くよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月26日 
上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 12月4日 
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月10日 
京都町衆が徳川家康に鉛1000斤を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月23日 
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、密談する。午刻(11-13時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
未刻(13-15時)、豊臣国松が六条河原(山城国)にて処刑される。国松の乳母の子・田中六左衛門も同時に処刑される。乳母は赦免される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月11日 
午刻(11-13時)、古田重然・山城守父子が豊臣秀頼への内通の疑いにより徳川秀忠の命により伏見(山城国)にて切腹する。検使は鳥居成次・内藤右衛門佐。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月19日 
卯刻(5-7時)、徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく伏見城(山城国)を発つ。永原(近江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 8月4日 
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく京都(山城国)を発つ。膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和6年 1620年 -月-日 
板倉勝重が京都所司代の職を辞し、子・重宗が京都所司代となる。重宗は27000石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

寛永1年 1624年 4月29日 
板倉勝重が堀川(山城国)の邸宅にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉勝重」の項

寛永10年 1633年 4月21日 
徳川家光が板倉重宗に12000石を給付し、総じて50000石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

寛永3年 1626年 8月6日 
脇坂安治が京都(山城国)にて死去する。
出典:『脇坂家伝記

寛永11年 1634年 7月7日 
森忠政が京都(山城国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森忠政」の項

承応3年 1654年 12月6日 
板倉重宗が京都所司代の職を辞す。後任に牧野親成が就くが、重宗に親成の後見が言い渡される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

明暦1年 1655年 11月15日 
板倉重宗が京都の邸宅を引き払う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

明暦2年 1656年 8月15日 
板倉重宗の摂津国・山城国・近江国の所領を葛飾郡(下総国)、猿島郡(下総国)、相馬郡(下総国)、豊田郡(下総国)に転じ、関宿城(下総国)城主とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

明暦2年 1656年 12月1日 
板倉重宗が関宿(下総国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

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