人 物 史

小笠原秀政 おがさわら ひでまさ
生 没 年永禄12年(1569)-元和1年(1615)5/7
出 身-幼 名幸松丸
別 称貞政
法 名-
戒 名義叟宗玄両選院
小笠原貞慶日野晴光の娘
兄 弟 姉 妹小笠原秀政
配 偶 者登久(松平信康の娘・徳川家康の養女)
万(蜂須賀至鎮の妻)、小笠原忠脩小笠原忠真、千代(細川忠利の妻)、小笠原忠知、松平重直、小笠原忠慶、小笠原長俊、溝口政房、小笠原昌行
官 位上野介、信濃守、兵部大輔
役 職-
城 郭松本城(信濃国)、飯田城(信濃国)、古河城(下総国)
参 考 文 献小笠原秀政に関する参考文献
○『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項
関 連 デ ー タ史料にみえる小笠原秀政の呼称
小笠原秀政の関連文化財
小笠原秀政 年表
永禄12年 1569年 -月-日 1歳
小笠原秀政が山城国綴喜郡宇治田原にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

元亀1年 1570年 4月23日 2歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 5歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正11年 1583年 2月25日 15歳
祖父・長時が会津(陸奥国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長時」の項

天正13年 1585年 11月-日 17歳
岡崎城(三河国)城主の石川数正小笠原秀政が出奔し、大坂(摂津国)に至りて羽柴秀吉に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項、『同』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

天正13年 1585年 12月3日 17歳
小笠原貞慶が保科正直の籠る高遠城(信濃国)を軍勢3000余で攻める。正直が貞慶を退ける。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正直」の項

天正17年 1589年 8月13日 21歳
小笠原秀政豊臣秀吉の命により、登久(松平信康の娘)を娶る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

天正18年 1590年 9月10日 22歳
徳川家康小笠原秀政に下総国古河30000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

文禄1年 1592年 12月8日 24歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄3年 1594年 -月-日 26歳
子・忠脩が下総国栗橋にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠脩」の項

文禄4年 1595年 3月20日 27歳
小笠原秀政が従五位下・上野介に叙位・任官。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

文禄4年 1595年 5月10日 27歳
父・貞慶が古河(下総国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原貞慶」の項

慶長1年 1596年 10月27日 28歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 -月-日 28歳
子・忠真が下総国古河にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」の項

慶長4年 1599年 -月-日 31歳
子・忠知が下総国古河にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第190「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠知」の項

慶長5年 1600年 7月23日 32歳
徳川家康が古河(下総国)に宿泊する。小笠原秀政が家康に饗膳を献じる。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長6年 1601年 2月-日 33歳
徳川家康小笠原秀政に20000石を加増し、信濃国飯田50000石を給付する。秀政は信濃守となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長11年 1606年 2月2日 38歳
小笠原忠脩忠真兄弟が徳川秀忠に前にて元服する。忠脩・忠真は秀忠の偏諱を賜い、忠脩は信濃守を、忠真は大学頭を称す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」の項、同巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠脩」の項

慶長11年 1606年 2月5日 38歳
小笠原秀政が兵部大輔に任官する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長13年 1608年 -月-日 40歳
徳川秀忠が小笠原秀政の娘・千代を養女とし、細川忠利に嫁がせる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠利」の項

慶長14年 1609年 12月26日 41歳
徳川秀忠小笠原秀政が和田倉邸を訪れる。秀忠は秀政に脇差(銘 広光)、小真壺を下賜する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長15年 1610年 閏2月-日 42歳
高田城(越後国)築城につき、同城の守備を小笠原秀政に命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長18年 1613年 10月19日 45歳
卯刻(5-7時)、江戸城(武蔵国)本丸にて、本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次林羅山に料理が振る舞われる。
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が江戸城の新城に赴き、南光坊天海の論議を聴聞する。題は我功徳力、如来加持力、法界力、三具足をもって即身成仏となす。
夜、石川康長の日頃の不義が露見し、また大久保長安に縁座し所領没収となる。康長の所領没収につき、小笠原秀政松本城(信濃国)を請取のため、同城に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項

慶長18年 1613年 10月-日 45歳
徳川秀忠小笠原秀政に30000石を加増し、飯田(信濃国)より松本(信濃国)に移封する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長19年 1614年 7月27日 46歳
南光坊天海駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康に天台法問の伝授をする。
成瀬正武が江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
家康が『晋書』、『玉海』、『朱子大全』、『大学衍義補』、『二程全書』、『文章弁礼』、『文章正宗』、『李白詩集』、『東莱南軒集』等の書籍30冊を江戸に送る。いずれも江戸の文庫に無い書籍で、林羅山が移送を担当する。
家康が佐野信吉の所領を改易する。信吉の兄・富田信高が勘気を蒙り所領改易となったことの連座とされる。信吉の身柄は小笠原秀政が預かる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項

慶長19年 1614年 8月8日 46歳
板倉重昌が京都(山城国)に向けて駿府(駿河国)を出立する。
東大寺上生院が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面し、大仏の髪が傾いたので修復すべく、真柱を取り替え、諸国勧進をし、銅をもって鋳造することを訴える。家康はその訴えを承諾し、中井正清に修復工事を命じる。源頼朝が重源に遣わした自筆文書2通、『東大寺縁起』を上生院が家康に見せる。
小笠原秀政忠脩父子が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月10日 47歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項

慶長20年 1615年 4月21日 47歳
徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月26日 47歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月27日 47歳
徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月28日 47歳
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条

慶長20年 1615年 4月29日 47歳
浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 5月1日 47歳
徳川家康が諸大名に対面し、5月3日に出陣することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月3日 47歳
徳川家康徳川秀忠大坂城(摂津国)への出陣が予定されていたが5月5日に延引となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月4日 47歳
榊原康勝小笠原秀政、保科正光、藤田忠季が須奈村(河内国)に陣取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長20年 1615年 5月5日 47歳
巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項

慶長20年 1615年 5月6日 47歳
八尾(河内国)にて藤堂高虎長宗我部盛親が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。
岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明伊達政宗の徳川勢と後藤基次薄田兼相渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、徳川家康徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項

慶長20年 1615年 5月7日 47歳
寅刻(3-5時)、徳川秀忠が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川家康が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・真田信繁長宗我部盛親・仙石秀範・大野治房・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・伊東長実・中島氏種・野々村雅春・青木一重速水守久等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:松平忠直酒井忠世酒井家次本多忠朝(戦死)、小笠原秀政(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、小笠原忠脩(戦死)、黒田長政加藤嘉明松平正久渥美友重[松平忠直勢]、駒井昌保[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)、小倉吉次小倉吉正柳沢元吉丹羽秀重[丹羽長重勢](戦死)。
豊臣秀頼勢:真田信繁(戦死)、大谷吉治(戦死)、石川康勝(戦死)、細川興秋、渡辺糺[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼大坂城(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、本多正純後藤光次を介し、豊臣秀頼淀殿の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同398「小倉吉正」の項

慶長20年 1615年 5月8日 
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19

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