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石高から軍役算出
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東福寺(山城国) 年表
大永7年 1527年 10月13日
足利義晴
・
細川道永
が軍勢20000-30000を率い
坂本
(近江国)より上洛し、義晴は若王子に、高国は神護寺に陣所を置く。またその加勢として、
六角定頼
率いる軍勢20000(30000とも)が
東福寺
に、朝倉教景率いる軍勢6000(10000とも)が
下京
四条に布陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条
享禄2年 1529年 9月11日
幕府が東寺境内稲荷社の氏子と
東福寺
の喧嘩を制止する奉行人連署奉書を発給する。発給者は
飯尾堯連
、
松田盛秀
、
松田亮致
。
出典:享禄2年9月11日付室町幕府奉行人連署奉書(『東寺百合文書』)
天文7年 1538年 7月17日
東福寺
にて施餓鬼が行われる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条
天文17年 1548年 12月-日
三好長慶
が
東福寺
に三好勢の乱入狼藉、山林竹木伐採、放火の停止を記した禁制を発給する。
出典:天文17年12月日付三好長慶禁制(「東福寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-222号)
天文21年 1552年 12月14日
十河一存
が
東福寺
・同門前・糠辻に十河勢の乱暴狼藉、寄宿、兵糧米賦課、竹木伐採を禁止する禁制を発給する。
出典:天文21年12月14日付十河一存禁制(『東福寺文書 一』38号)
永禄11年 1568年 3月-日
三好長逸
、
岩成友通
、
三好宗渭
が連署で、
東福寺
および同門前境内に三好勢の濫妨・狼藉、山林竹木の伐採、寄宿、矢銭・兵粮米の賦課、放火を停止する禁制を発給する。
出典:永禄11年3月日付三好三人衆連署禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1396号「東福寺文書」)
天正7年 1579年 4月29日
織田信忠
が、父・
信長
の陣する古池田(摂津国)に戻り、播磨国の情勢を報告する。その後、信忠は帰国を許され、
東福寺
に入る。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」
天正10年 1582年 2月5日
初午につき
山科言経
が稲荷社に参詣する。その後、
東福寺
、
三十三間堂
を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条
天正11年 1583年 4月16日
柴田勝豊
が
東福寺
にて死去する。
出典:-
天正19年 1591年 8月5日
豊臣鶴松が死去する。
秀吉
は悲歎のあまり髻を切り、諸大名のそれに倣う。鶴松の葬礼が妙心寺にて執り行われ、秀吉は
東福寺
に籠る。
出典:『北野社家日記』同年月日条
天正19年 1591年 8月6日
豊臣秀吉
が
東福寺
に赴く。
入唐のことについて
西笑承兌
、惟杏、有節瑞保に供をするように伝える。
出典:『鹿苑日録』同年月日条
慶長2年 1597年 4月15日
西笑承兌
が秉払化儀を見るため
東福寺
に赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条
慶長2年 1597年 9月19日
善光寺如来堂
前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行の件につき、
南禅寺
(山城国)、天龍寺(山城国)、
建仁寺
(山城国)、
東福寺
(山城国)に僧衆を出仕させるよう
西笑承兌
が触状を出す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条
慶長2年 1597年 10月10日
西笑承兌
が伏見稲荷に赴く。
豊臣秀吉
が上洛するというので同地にて待つ。しかし、秀吉は来ず。
織田有楽斎
と会い、
東福寺
に赴き紅葉を見物する。夜、伏見に赴き、深夜に帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条
慶長9年 1604年 11月18日
8日に亡くなった
九条兼孝
の娘の葬儀が
東福寺
で執り行われる。
兼孝は出家し円性と称す。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『系図纂要』「九条家」
慶長19年 1614年 8月2日
中井正清
が
駿府城
(駿河国)にいる
徳川家康
に
方廣寺
(山城国)の鐘の銘文を送る。銘文の筆者は
東福寺
(山城国)の清韓で、家康は「国家安康」の語をはじめ文章に不快感を示す。銘文の写しを作成し、
徳川秀忠
に送る。担当は
林羅山
。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長20年 1615年 4月20日
黒田長政
、
伊達政宗
、
加藤嘉明
が
東福寺
不二庵に到着する。同庵に長政の妻、娘・とく、子・犬万、子・万吉が合流する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」
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