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石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
松本城(信濃国)
まつもとじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
深志城
現 所 在 地
〒390-0873
長野県松本市丸の内4-1
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
馬場信春
、
石川数正
、
石川康長
、
小笠原秀政
松本城(信濃国) 年表
天正3年 1575年 5月20日
織田信長
が
酒井忠次
に信長馬廻の鉄砲衆500、
金森長近
、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」
天正3年 1575年 5月21日
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた
武田勝頼
勢に、鳶ノ巣山(三河国)より
酒井忠次
が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、
酒井家次
、
松平家忠
、松平康忠、
松平伊忠
(戦死)・
松平家忠
、
松平清宗
、
小栗忠政
[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、
三枝昌貞
(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する
織田信長
・
徳川家康
の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:
佐々成政
、
前田利家
、
野々村正成
、
福富秀勝
、
塙直政
、
大島光義
。
徳川勢:
石川数正
、
大久保忠世
、
大久保忠佐
、
大須賀康高
、
鳥居元忠
、
平岩親吉
、
松平信一
、
松平忠正
、
松平康安
、
松平康元
、
酒井正親
、
榊原康政
、
本多忠勝
、
渥美友勝
、
岩瀬氏定
(戦死)、
加藤正次
。
武田勢:
馬場信春
(戦死)、
山県昌景
(戦死)、土屋貞綱(戦死)、
土屋昌続
(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、
武田信実
(戦死)、
真田信綱
(戦死)、
真田昌幸
、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、
名和宗安
(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、
米倉重継
(戦死)、青木信定(戦死)、
横手信俊
、
津金胤時
(戦死)、
跡部久直
(戦死)、
酒依昌光
(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項
文禄2年 1593年 -月-日
石川数正
が死去する
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項
慶長18年 1613年 10月19日
卯刻(5-7時)、
江戸城
(武蔵国)本丸にて、
本多正純
、
成瀬正成
、
安藤直次
、
永井直勝
、
松平正久
、
後藤光次
、
林羅山
に料理が振る舞われる。
巳刻(9-11時)、
徳川秀忠
が江戸城の新城に赴き、
南光坊天海
の論議を聴聞する。題は我功徳力、如来加持力、法界力、三具足をもって即身成仏となす。
夜、
石川康長
の日頃の不義が露見し、また
大久保長安
に縁座し所領没収となる。康長の所領没収につき、
小笠原秀政
が
松本城
(信濃国)を請取のため、同城に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項
慶長18年 1613年 10月-日
徳川秀忠
が
小笠原秀政
に30000石を加増し、飯田(信濃国)より松本(信濃国)に移封する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項
慶長20年 1615年 5月7日
寅刻(3-5時)、
徳川秀忠
が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・
真田信繁
・
長宗我部盛親
・仙石秀範・
大野治房
・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・
伊東長実
・中島氏種・野々村雅春・
青木一重
・
速水守久
等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:
松平忠直
、
酒井忠世
、
酒井家次
、
本多忠朝
(戦死)、
小笠原秀政
(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、
小笠原忠脩
(戦死)、
黒田長政
、
加藤嘉明
、
松平正久
、
渥美友重
[松平忠直勢]、
駒井昌保
[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)、
小倉吉次
、
小倉吉正
、
柳沢元吉
、
丹羽秀重
[丹羽長重勢](戦死)。
豊臣秀頼勢:
真田信繁
(戦死)、
大谷吉治
(戦死)、
石川康勝
(戦死)、細川興秋、
渡辺糺
[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼
が
大坂城
(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長
の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、
本多正純
、
後藤光次
を介し、
豊臣秀頼
・
淀殿
の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成
が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同398「小倉吉正」の項
慶長20年 1615年 閏6月9日
松本(信濃国)の山より銀・鉛が産出したとの報告が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
のもとにもたらされる。家康は領主に採掘を命じる。担当は
松平正久
、伊丹康勝。
出典:『駿府記』同年月日条
元和1年 1615年 7月17日
召しにより
小笠原忠真
が
伏見城
(山城国)に登城する。幕府は
小笠原秀政
の遺領を忠真が相続することを認める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」の項
元和3年 1617年 7月28日
幕府が
小笠原忠真
に20000石を加増し、松本(信濃国)より明石(播磨国)100000石に移封する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」の項
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