和暦 |
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事項 |
出典 |
- | - | - | - | - | 万見重元が生まれる。 | - |
元亀2年 | 1571 | 9 | 12 | - | 織田信長が延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。 | 『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 5 | 10 | - | 巳刻(9-11時)、織田信長が大和国一国一円の支配を筒井順慶に任せることを明智光秀、万見重元を介して同人に伝える。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
天正5年 | 1577 | 10 | 20 | - | 筒井順慶が成身院にて万見重元を饗応する。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 6 | 16 | - | 羽柴秀吉が上洛し、織田信長のもとに訪れる。信長は秀吉に神吉(播磨国)、志方(播磨国)を攻め破り、三木城(播磨国)を追い詰めるよう命じる。神吉城(播磨国)攻めの検使として大津長昌、水野九蔵、大塚又一郎、長谷川竹、矢部家定、菅屋長頼、万見重元、祝弥三郎を遣わす。 | 『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」 |
天正6年 | 1578 | 10 | 21 | - | 荒木村重が織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑、明智光秀、万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。 | 『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 | 1578 | 11 | 3 | - | 荒木村重の謀反につき、織田信長が安土城(近江国)に子・神戸信孝、稲葉一鉄、不破光治、丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。 | 『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 11 | 10 | - | 織田信長が荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠、北畠信雄、織田信包、神戸信孝、不破直光、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛、羽柴秀吉、松井友閑、大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。 | (天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 | 1578 | 11 | 14 | - | 滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌、安藤守就、稲葉一鉄、羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。 同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠、北畠信雄、神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。 | 『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 | 1578 | 11 | 24 | - | 茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然・福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。 清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。 | 『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 12 | 8 | - | 織田信長が荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政・万見重元・菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。 | 『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条 |