城 郭 史

伊丹城(摂津国) いたみじょう
築 城 年-
築 城 者伊丹氏
改 築 年-
改 築 者荒木村重
廃 城 年天正11年 1583年
別 称有岡城、在岡城
現 所 在 地〒664-0846
大阪府伊丹市伊丹1丁目12 有岡城跡公園
史 料 地 名-
参 考 文 献伊丹城(摂津国)に関する参考文献
関 連 デ ー タ-
リ ン ク伊丹親興荒木村重
伊丹城(摂津国) 年表
永正17年 1520年 3月16日 
細川澄元が神呪寺より伊丹城(摂津国)に移る。
出典:『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」

永正17年 1520年 5月7日 
細川澄元が京都において三好之長細川高国に敗れたことを聞き、伊丹城(摂津国)を脱出し、生瀬口に逃亡する。
出典:『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」

大永7年 1527年 9月17日 
三好元長伊丹城(摂津国)を攻める。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 10月28日 
三好元長伊丹城(摂津国)攻めを止め、細川道永を討つべく京に向かう。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

享禄2年 1529年 8月16日 
柳本賢治、高畠、可竹軒が伊丹城(摂津国)を攻める。伊丹元扶が戦死する。
出典:『細川両家記』

享禄2年 1529年 11月21日 
柳本賢治、高畠、可竹軒が伊丹城(摂津国)を落とす。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『細川両家記』

享禄3年 1530年 8月27日 
細川道永が神咒寺(摂津国)に陣取る。道永に対応すべく、細川晴元高畠長直伊丹城(摂津国)に、池田信正を池田城(摂津国)に、薬師寺国盛を富松城(摂津国)に入れ置く。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 2月28日 
細川道永伊丹城(摂津国)を攻める。道永の攻撃に耐えられなくなった高畠長直が、城を道永に明け渡し池田城(摂津国)に移る。
出典:『細川両家記』

天文2年 1533年 3月5日 
一向一揆が伊丹城(摂津国)を攻撃する。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 3月29日 
一向一揆に攻撃されている伊丹城(摂津国)を救援すべく、法華衆を引き連れ同城の後詰に駆け付け一向一揆を破る。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文18年 1549年 1月11日 
三好長慶越水城(摂津国)を発し、伊丹親興の居る伊丹(摂津国)を焼き払う。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 2月12日 
三好長慶越水城(摂津国)を発し、伊丹親興の伊丹(摂津国)を悉く焼き払う。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 8月24日 
三好長慶伊丹親興の籠る伊丹城(摂津国)を落とすため伊丹城への向城を築く。城の東は森本に池田長正、南は恒富前田城に淡路国衆、西は御願塚に三好勢、北西は小屋城に小川式部丞を配置する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文19年 1550年 1月11日 
三好長慶が富松城(摂津国)に入城し、伊丹城(摂津国)の総攻めのため軍勢を催促する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文19年 1550年 3月28日 
本興寺(尼崎(摂津国))にて三好長慶伊丹親興が会見し和睦する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文19年 1550年 3月29日 
三好長慶伊丹親興の籠る伊丹城(摂津国)から撤退する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

元亀1年 1570年 6月18日 
池田勝正が池田豊後守・池田周防神を殺害し出奔する。
出典:『言継卿記』同年月19日条、、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 6月19日 
足利義昭の近江国への出陣が、18日の池田勝正の家内の内紛と三好長逸三好宗渭岩成友通が攻め入ってくるとの噂があったことから延期となる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月20日 
池田21人衆の内、池田豊後守、池田周防守が殺害され、池田勝正池田城から追われ、刀禰山、次いで大坂(摂津国)に落ち延びる。勝正は足利義昭のもとに赴くとして、義昭のもとより上野秀政(軍勢500)、細川藤孝(軍勢200)、一色紀伊守、織田三郎五郎の合わせて軍勢2000余が山崎(山城国)に派遣される。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正6年 1578年 10月21日 
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月3日 
荒木村重の謀反につき、織田信長安土城(近江国)に子・神戸信孝稲葉一鉄不破光治丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月9日 
織田信長荒木村重を攻めるため摂津国に向けて出陣する。信長は山崎(山城国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月14日 
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月-日 
滝川一益丹羽長秀が西宮・茨住吉・芦屋・雀ヶ松原・御影・滝山・生田森(摂津国)に陣取り、荒木村重方の荒木志摩守が籠る花隈城(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月4日 
滝川一益丹羽長秀が一の谷(摂津国)を放火する。その後、両人は荒木村重が籠る有岡城(摂津国)を攻めるべく塚口(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月8日 
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正6年 1578年 12月16日 
織田信長荒木村重の妻・だしを六条河原にて処刑する。
出典:『立入左京亮入道隆佐記』

天正6年 1578年 12月21日 
織田信長が古池田(摂津国)より上洛し京都に入る。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月25日 
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正7年 1579年 3月5日 
織田信長有岡城(摂津国)の荒木村重を攻めるべく、京都を出陣し、山崎(山城国)に滞在する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年5月1日条、『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 3月6日 
織田信長が天神馬場(摂津国)にて鷹狩をする。その日、郡山(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 3月7日 
織田信長が古池田(摂津国)に陣取る。織田信忠不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近等が荒木村重が籠る有岡城(摂津国)の四方に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 4月18日 
荒木村重有岡城(摂津国)より稲葉貞通の守る河原砦に足軽を出し攻める。塩川伯耆、氏家直昌が応戦する。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 4月29日 
織田信長有岡城(摂津国)への備えとして、塚口郷に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷を、塚口郷の東の田中に福富秀勝・山岡景佐・山城衆を、毛馬村に細川藤孝忠興・興元父子を、川端砦に池田恒興元助池田輝政父子を、四角屋敷に氏家直昌を、河原砦に稲葉貞通・芥川を、賀茂岸に塩川伯耆・安藤守就・伊賀七郎を、池上に織田信忠勢を、昆陽古城に滝川一益・武藤舜秀を、深田に高山重友を、倉橋に池田元助を定番として置く。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 8月20日 
織田信忠荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻めるため、岐阜城(美濃国)を発つ。柏原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月21日 
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、安土城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月22日 
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、堀秀政とともに安土城(近江国)を発つ。昆陽(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 9月2日 
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 10月18日 
19日に有岡城(摂津国)攻めのため同地に在陣中の筒井順慶のもとへ巻数を送ってほしいとのことだったので多聞院英俊が用意する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月20日 
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正7年 1579年 12月13日 
辰刻(7-9時)、織田信長有岡城(摂津国)の人質衆の女房をはじめ600余人を家の追い入れ焼き殺す。検使は矢部家定
有岡城は信長の小姓衆により二十日番制で管理される。
出典:『多聞院日記』同年月14日条、『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正8年 1580年 3月3日 
織田信長有岡城(摂津国)の様子を見分する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月7日 
織田信長有岡城(摂津国)より山崎(山城国)に移る。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 閏3月1日 
織田信長有岡城(摂津国)の在番を20日番制から30日番制に変更する。それにるき矢部家定を遣わす。
出典:『信長公記』巻13(2)「無辺の事」

天正8年 1580年 4月1日 
有岡城(摂津国)の在番として矢部家定に替り村井貞成が入る。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正11年 1583年 5月-日 
池田恒興大坂城(摂津国)より大垣城(美濃国)に、池田元助伊丹城(摂津国)より岐阜城(美濃国)に、池田輝政尼崎城(摂津国)より池尻城(美濃国)に移る。
出典:『池田氏家譜集成』

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