人 物 史

蒲生賢秀 がもう かたひで
生 没 年天文3年(1534)-天正12年(1584)4/17
出 身近江国幼 名-
別 称藤太郎、権太郎
法 名-
戒 名恵倫寺殿天英輪公大禅定門
蒲生定秀馬淵山城守の娘
兄 弟 姉 妹蒲生賢秀、青地茂綱、小倉実隆、娘(関盛信の妻)
配 偶 者後藤賢豊の妹
蒲生氏信、蒲生氏春、蒲生氏郷、蒲生重郷、蒲生貞秀、娘(布施忠兵衛の妻)、娘(田丸直昌の妻)、娘(小倉行春の妻)
官 位左兵衛大夫
役 職-
城 郭日野城(近江国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ蒲生賢秀の関連文化財
蒲生賢秀 年表
天文3年 1534年 -月-日 1歳
蒲生賢秀が生まれる。
出典:-

天文21年 1552年 1月2日 19歳
六角定頼が死去する。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 22歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 -月-日 23歳
子・氏郷が生まれる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 25歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄4年 1561年 7月28日 28歳
六角義賢細川晴元の次男を擁立し、畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と示し合わせて勝軍地蔵城(山城国)にて軍勢10000程で蜂起する。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)、『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 7月29日 28歳
六角義賢の軍勢1000が東山(山城国)に出張る。三好長慶勢は出勢せず。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 7月30日 28歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 8月19日 28歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月20日 28歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月26日 28歳
東河原(山城国)にて六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月28日 28歳
東河原(山城国)にて六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。小泉山城守が戦死する。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 -月-日 28歳
勝軍地蔵城(山城国)に入った永原安芸守率いる六角勢10000に対処すべく京都の三好勢の総大将として三好義興が梅津(山城国)に在陣する。松永久秀が西院(山城国)に在陣する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 11月24日 28歳
三好義興松永久秀が勝軍地蔵城(山城国)に攻め寄せ六角義賢と交戦する。三好勢は城を落とすことができずに撤退する。この戦いで、六角方は永原安芸守が、三好方は三郷主膳助が戦死する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 -月-日 28歳
六角義賢が布陣する神楽岡(山城国)に攻め寄せた松永久秀を破る。撤退する久秀を追撃しようとするが蒲生定秀に制止され追撃をやめる。
出典:『足利季世記』巻5「神楽岡合戦並当流弓ノ根本之事」

永禄5年 1562年 3月6日 29歳
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 -月-日 29歳
六角家の家督を六角義賢が、子・義弼に譲る。
出典:『足利季世記』巻6「江州動乱之事」

永禄6年 1563年 10月-日 30歳
六角義賢義治父子が居城・観音寺城(近江国)を家臣に奪われる。
出典:『厳助往年記』同年条

永禄11年 1568年 8月7日 35歳
織田信長が軍勢をともない佐和山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻1(3)「信長御憑み御請の事」

永禄11年 1568年 9月7日 35歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 35歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月10日 35歳
織田信長が近江国中郡に侵攻する。これを受け、岩成友通が、朝、坂本(近江国)に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月11日 35歳
織田信長が近江国にて六角承禎と交戦する。一旦、美濃に引き上げる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月12日 35歳
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月14日 35歳
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 -月-日 35歳
蒲生賢秀が人質として、子・鶴千代岐阜城(美濃国)に送る。
出典:『蒲生氏郷記』

永禄12年 1569年 8月20日 36歳
織田信長が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって岐阜城(美濃国)を出陣する。桑名(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄12年 1569年 8月28日 36歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を包囲する。城の南に織田信包滝川一益、織田忠寛、稲葉良通池田恒興、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、蒲生賢秀、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、山岡景隆山岡景猶丹羽長秀が、城の西に木下秀吉氏家直元安藤守就、飯沼長資、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に柴田勝家森可成、山田勝盛、長谷川与次佐々成政、佐々政次、梶原景久、不破光治丸毛長照、丹羽源六、不破直光、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を前田利家がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 10月3日 36歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄12年 1569年 10月8日 36歳
織田信長大河内城(伊勢国)に子・茶筅を入れ、津田掃部を添え置く。安濃津城(伊勢国)・渋見城(伊勢国)・小造城(伊勢国)に滝川一益を入れ置く。伊勢国上野城に織田信包を入れ置く。伊勢国攻めの諸部隊を解散する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

元亀1年 1570年 4月23日 37歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 6月4日 37歳
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 11月22日 37歳
織田信長六角承禎義治父子と和睦する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 9月12日 38歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 40歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月8日 40歳
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日 40歳
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日 40歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日 40歳
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 40歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日 40歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日 40歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 40歳
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 40歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 40歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日 40歳
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 40歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 40歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正1年 1573年 9月4日 40歳
織田信長佐和山城(近江国)に移る。柴田勝家六角義治が籠る鯰江城(近江国)攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正2年 1574年 4月13日 41歳
六角承禎が石部城(近江国)を退城する。織田信長は同城に佐久間信盛の軍勢を入れる。
出典:『信長公記』巻7(5)佐々木承禎石部城退散の事

天正6年 1578年 11月14日 45歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正7年 1579年 3月27日 46歳
父・定秀が死去する。
出典:-

天正10年 1582年 6月3日 49歳
本能寺の変により安土城(近江国)より上臈衆が立ち退くにあたりに城に火をかけることを提案するが、留守居・蒲生賢秀が「天下無双の御屋作り」を失うことを惜しみ、また金銀・名物を損じることがあっては世間の嘲笑を受けるといって、火をかけることを止める。
出典:『信長公記』巻15 同年月日条

天正11年 1583年 4月24日 50歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 -月-日 50歳
孫・秀行が生まれる。
出典:-

天正12年 1584年 4月17日 51歳
蒲生賢秀が死去する。
出典:-

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