歴史の目的をめぐって
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歴史
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総 年 表
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コンテンツ
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中世貨幣の価値
年齢計算
誕生年計算
寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
人 物 史
不破直光
ふわ なおみつ
生 没 年
?-?
出 身
-
幼 名
-
別 称
彦三、勝光
法 名
-
戒 名
-
父
不破光治
母
-
兄 弟 姉 妹
不破直光
、不破源六
配 偶 者
-
子
-
官 位
-
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
不破直光の関連文化財
不破直光 年表
- -年 -月-日
不破直光
が生まれる。
出典:-
永禄12年 1569年 8月20日
織田信長
が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって
岐阜城
(美濃国)を出陣する。
桑名
(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条
永禄12年 1569年 8月28日
織田信長
が
北畠具教
の
大河内城
(伊勢国)を包囲する。城の南に
織田信包
、
滝川一益
、織田忠寛、
稲葉良通
、
池田恒興
、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、
蒲生賢秀
、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、
山岡景隆
、
山岡景猶
、
丹羽長秀
が、城の西に
木下秀吉
、
氏家直元
、
安藤守就
、飯沼長資、
佐久間信盛
、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に
柴田勝家
、
森可成
、山田勝盛、
長谷川与次
、
佐々成政
、佐々政次、梶原景久、
不破光治
、
丸毛長照
、丹羽源六、
不破直光
、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を
前田利家
がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」
永禄12年 1569年 10月3日
織田信長
が
北畠具教
の
大河内城
(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条
天正1年 1573年 8月8日
浅井長政
家臣・阿閉貞征が
織田信長
に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」
天正1年 1573年 8月10日
織田信長
が大づくの北山田山に軍勢を置き
朝倉義景
勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」
天正1年 1573年 8月12日
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に
織田信長
が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、
不破光治
、
不破直光
、
丸毛長照
、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠
が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)
天正1年 1573年 8月13日
織田信長
が
朝倉義景
の陣所に夜襲をかける。
佐久間信盛
、
柴田勝家
、
滝川一益
、
蜂屋頼隆
、
羽柴秀吉
、
丹羽長秀
、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉良通
、稲葉右京亮、
稲葉貞通
、
蒲生賢秀
、
蒲生氏郷
、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、
多賀常則
、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、
山岡景隆
、山岡孫太郎、
山岡景猶
に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)
天正1年 1573年 8月14日
昨夜より
織田信長
が
朝倉義景
勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。
斎藤龍興
が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)
天正1年 1573年 8月15日
織田信長
が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)
天正1年 1573年 8月16日
織田信長
が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)
天正1年 1573年 8月17日
織田信長
が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)
天正1年 1573年 8月18日
織田信長
が府中龍門寺(越前国)に陣取る。
朝倉義景
は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)
天正1年 1573年 8月20日
朝倉景鏡
の裏切りにより賢松寺(越前国)にて
朝倉義景
が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる
織田信長
のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)
天正1年 1573年 8月26日
織田信長
が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)
天正1年 1573年 8月27日
羽柴秀吉
が
小谷城
(近江国)京極丸を攻略し、
浅井久政
・
長政
父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は
織田信長
の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)
天正1年 1573年 8月28日
織田信長
が
小谷城
(近江国)京極丸に入る。
浅井長政
は小谷城にて自害する。
浅井久政
・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1
天正2年 1574年 7月14日
織田信長
が
願証寺(長島)
を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・
信忠
を大将として、
織田信包
、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、
斎藤利治
、簗田左衛門太郎、
森長可
、坂井越中守、
池田恒興
、
長谷川与次
、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には
佐久間信盛
、
柴田勝家
、
稲葉一鉄
、
稲葉貞通
、
蜂屋頼隆
を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、
木下秀長
、浅井新八、
丹羽長秀
、
氏家直昌
、
安藤守就
、飯沼勘平、
不破光治
、
不破直光
、
丸毛長照
、丸毛三郎兵衛、
佐々成政
、市橋長利、
前田利家
、中条将監、
川尻秀隆
、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」
天正2年 1574年 7月15日
織田信長
が
願証寺(長島)
攻めにつき、
九鬼嘉隆
、
滝川一益
、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、
島田秀満
、
林秀貞
が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・
信忠
ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、
氏家直昌
、
安藤守就
、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには
柴田勝家
、
稲葉一鉄
、
稲葉貞通
、
蜂屋頼隆
を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として
佐久間信盛
・
信栄
父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、
不破直光
、
丹羽長秀
を置く。かろうと嶋の攻め手には、
織田信包
、
林秀貞
、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、
北畠信意
、
神戸信孝
、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」
天正6年 1578年 10月21日
荒木村重
が
織田信長
に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため
松井友閑
、
明智光秀
、
万見重元
を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月10日
織田信長
が
荒木村重
に与同した
高槻城
(摂津国)の
高山重友
を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。
滝川一益
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。
織田信忠
、
北畠信雄
、
織田信包
、
神戸信孝
、
不破直光
、
前田利家
、
佐々成政
、
原長頼
、
金森長近
、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に
佐久間信盛
、
羽柴秀吉
、
松井友閑
、
大津長昌
を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『
姫路市史 史料編1
』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月14日
滝川一益
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、武藤舜秀、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
、
羽柴秀吉
、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、
蒲生賢秀
、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、
織田信忠
、
北畠信雄
、
神戸信孝
は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月24日
茨木城
(摂津国)に籠る
荒木村重
方の
中川清秀
が、
古田重然
・
福富秀勝
・下石彦右衛門・
野々村正成
の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、
織田信長
に降伏する。
清秀の降伏により、信長は
本願寺顕如
との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条
天正6年 1578年 12月8日
織田信長
が
荒木村重
の籠る
有岡城
(摂津国)を攻める。攻め衆は、
堀秀政
・
万見重元
・
菅屋長頼
が奉行をつとめ、
筒井順慶
、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条
天正6年 1578年 12月11日
織田信長
が
有岡城
(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に
丹羽長秀
・
蜂屋頼隆
・
蒲生氏郷
・
高山重友
・
神戸信孝
を、毛馬村の砦に
織田信包
・
滝川一益
・
北畠信雄
・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に
池田恒興
・
元助
・
池田古新
を、原田郷の砦に
中川清秀
・
古田重然
を、刀根山の砦に
稲葉良通
・
氏家直昌
・
安藤守就
・芥川を、郡山の砦に
津田信澄
を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に
織田信忠
を、
高槻城
(摂津国)に
大津長昌
・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・
猪子高就
・村井作右衛門・武田左吉を、
茨木城
(摂津国)に
福富秀勝
・下石彦右衛門・
野々村正成
を置く。
播磨国に、
羽柴秀吉
・
佐久間信盛
・
明智光秀
・
筒井順慶
を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条
天正10年 1582年 3月5日
織田信長
が
武田勝頼
を攻めるべく、
安土城
(近江国)を出陣する。
柏原
(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月8日
織田信長
が
岐阜城
(美濃国)より
犬山城
(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月9日
織田信長
が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月10日
織田信長
が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月11日
織田信長
が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月13日
織田信長
が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」
天正10年 1582年 3月14日
織田信長
が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて
武田勝頼
・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう
矢部家定
に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」
天正10年 1582年 3月15日
織田信長
が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて
武田勝頼
・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」
天正10年 1582年 3月17日
織田信長
が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」
天正10年 1582年 3月18日
織田信長
が
高遠城
(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」
天正10年 1582年 3月19日
織田信長
、
津田信澄
、
菅屋長頼
、
矢部家定
、
堀秀政
、
長谷川秀一
、
福富秀勝
、氏家行継、竹中重矩、
原長頼
、
蒲生氏郷
、
細川忠興
、
池田元助
、
蜂屋頼隆
、阿閉貞征、
不破直光
、
高山重友
、
中川清秀
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
筒井順慶
等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」
天正10年 1582年 3月24日
織田信長
が
武田勝頼
攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」
天正10年 1582年 4月21日
織田信長
が
岐阜城
(美濃国)を発つ。呂久渡で
稲葉一鉄
が、今須(美濃国)にて
不破直光
が、
柏原
(近江国)にて
菅屋長頼
が、
佐和山城
(近江国)にて
丹羽長秀
が、山崎(美濃国)にて山崎片家が信長に一献を進上する。その後、信長は
安土城
(近江国)に帰城し、開陣する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」、『鷺森日記』同年月日条
天正10年 1582年 6月2日
本能寺
に宿泊中の
織田信長
を、早朝、
明智光秀
が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する
織田信忠
とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:
森成利
(戦死)、
福富秀勝
(戦死)、
野々村正成
(戦死)。
信忠勢:
村井貞勝
(戦死)、
菅屋長頼
(戦死)、
織田信房
(戦死)、
団忠正
(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条
天正11年 1583年 4月19日
佐久間盛政
率いる
柴田勝家
勢の先陣が、
羽柴秀吉
方の賤ケ岳砦を攻め、同砦を守る
中川清秀
を討ち取る。
出典:『多聞院日記』同年月22日条
天正11年 1583年 4月21日
賤ケ岳の合戦にて
羽柴秀吉
と
柴田勝家
が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、
福島正則
(一番槍)、
加藤清正
(一番槍)、
加藤嘉明
(一番槍)、
片桐且元
(一番槍)、
脇坂安治
(一番槍)、
平野長泰
(一番槍)、
糟屋武則
(一番槍)、
石川一光
(一番槍・戦死)、
桜井家一
(一番槍)、
羽柴秀長
、
藤堂高虎
[羽柴秀長勢]、
黒田孝高
、
黒田長政
、
竹森次貞
[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、
加藤光泰
。
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、
柴田勝政
(戦死)、
毛受勝照
(戦死)、
佐久間盛政
、
拝郷家嘉
(戦死)、
山路正国
[佐久間盛政勢](戦死)、
長連龍
[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『
菅氏世譜
』、『
藤堂家覚書
』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項
天正11年 1583年 4月22日
柴田勝家
が
北之庄城
(越前国)に帰城する。
羽柴秀吉
が府中城(越前国)に着陣する。
出典:(天正11年)4月24日付豊臣秀吉書状(「赤木文明堂文書」『豊臣秀吉文書集』1巻-651号)
天正11年 1583年 4月24日
柴田勝家
が
北之庄城
(越前国)にて自害する。
出典:-
- -年 -月-日
不破直光
が死去する。
出典:-
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