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人 物 史
大津長昌
おおつ ながまさ
生 没 年
?-天正7年(1579)3/13
出 身
尾張国中島郡府中
幼 名
伝十郎、長治
別 称
-
法 名
-
戒 名
-
父
-
母
-
兄 弟 姉 妹
-
配 偶 者
丹羽長政の娘
子
-
官 位
-
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
大津長昌 年表
- -年 -月-日
大津長昌
が生まれる。
出典:-
- -年 -月-日
大津長昌
が生まれる。
出典:-
元亀2年 1571年 9月12日
織田信長
が
延暦寺
、和邇、堅田、
坂本
(近江国)を焼き討ちする。
明智光秀
を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条
天正4年 1576年 4月14日
本願寺顕如
及び一向一揆が籠る
大坂本願寺
への路次を封鎖するため、
荒木村重
へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、
明智光秀
・
細川藤孝
へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、
原田直政
へ
天王寺
に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には
佐久間信栄
、光秀および検使の
猪子高就
、
大津長昌
を置く。
出典:『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」
天正4年 1576年 5月3日
早朝、
原田直政
が先陣に
三好笑岩
・
根来寺
衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、
明智光秀
、
佐久間信栄
、
荒木村重
、
猪子高就
、
大津長昌
等が籠る天王寺砦を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」
天正4年 1576年 5月5日
辰刻(7-9時)、
織田信長
が
大坂本願寺
に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の
佐久間信盛
が若江城(河内国)に攻め入る。
筒井順慶
は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため
一乗院尊政
、
大乗院尋憲
に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条
天正4年 1576年 5月6日
織田信長
が若井(若江)(河内国)に在城する。
奈良(大和国)にて
筒井順慶
および
松永久通
の無事が伝わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正4年 1576年 5月7日
早朝より
織田信長
が総勢で住吉口より出陣する。先陣は
佐久間信盛
、
松永久秀
、
細川藤孝
、若江衆、二陣は
滝川一益
、
蜂屋頼隆
、
羽柴秀吉
、
丹羽長秀
、
稲葉一鉄
、
氏家直昌
、
安藤守就
、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に
天王寺
に入り、
大坂本願寺
に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に
佐久間信盛
、
佐久間信栄
、進藤山城守、松永久秀、
松永久通
、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」
天正4年 1576年 5月8日
織田信長
と
本願寺顕如
の
大坂本願寺
周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる
下間頼廉
・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条
天正6年 1578年 6月16日
羽柴秀吉
が上洛し、
織田信長
のもとに訪れる。信長は秀吉に神吉(播磨国)、志方(播磨国)を攻め破り、
三木城
(播磨国)を追い詰めるよう命じる。神吉城(播磨国)攻めの検使として
大津長昌
、水野九蔵、大塚又一郎、
長谷川竹
、矢部家定、
菅屋長頼
、
万見重元
、祝弥三郎を遣わす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」
天正6年 1578年 10月21日
荒木村重
が
織田信長
に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため
松井友閑
、
明智光秀
、
万見重元
を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月10日
織田信長
が
荒木村重
に与同した
高槻城
(摂津国)の
高山重友
を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。
滝川一益
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。
織田信忠
、
北畠信雄
、
織田信包
、
神戸信孝
、
不破直光
、
前田利家
、
佐々成政
、
原長頼
、
金森長近
、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に
佐久間信盛
、
羽柴秀吉
、
松井友閑
、
大津長昌
を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『
姫路市史 史料編1
』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月14日
滝川一益
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、武藤舜秀、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
、
羽柴秀吉
、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、
蒲生賢秀
、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、
織田信忠
、
北畠信雄
、
神戸信孝
は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月24日
茨木城
(摂津国)に籠る
荒木村重
方の
中川清秀
が、
古田重然
・
福富秀勝
・下石彦右衛門・
野々村正成
の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、
織田信長
に降伏する。
清秀の降伏により、信長は
本願寺顕如
との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条
天正6年 1578年 12月8日
織田信長
が
荒木村重
の籠る
有岡城
(摂津国)を攻める。攻め衆は、
堀秀政
・
万見重元
・
菅屋長頼
が奉行をつとめ、
筒井順慶
、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条
天正6年 1578年 12月11日
織田信長
が
有岡城
(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に
丹羽長秀
・
蜂屋頼隆
・
蒲生氏郷
・
高山重友
・
神戸信孝
を、毛馬村の砦に
織田信包
・
滝川一益
・
北畠信雄
・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に
池田恒興
・
元助
・
池田古新
を、原田郷の砦に
中川清秀
・
古田重然
を、刀根山の砦に
稲葉良通
・
氏家直昌
・
安藤守就
・芥川を、郡山の砦に
津田信澄
を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に
織田信忠
を、
高槻城
(摂津国)に
大津長昌
・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・
猪子高就
・村井作右衛門・武田左吉を、
茨木城
(摂津国)に
福富秀勝
・下石彦右衛門・
野々村正成
を置く。
播磨国に、
羽柴秀吉
・
佐久間信盛
・
明智光秀
・
筒井順慶
を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条
天正7年 1579年 3月13日
高槻城
(摂津国)に在番中の
大津長昌
が死去する。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」
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