地 名 の 歴 史

加賀国[国] かがのくに
初 見-
加賀国
江沼郡、能美郡、加賀郡、河北郡、石川郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社加賀国の神社
寺 院-
城 郭加賀国の城郭
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
加賀国[国] 年表
長禄2年 1458年 8月晦日 
小寺藤兵衛の南朝残党討伐の際の玉璽奪還の功により、赤松法師丸が加賀国半国守護(石川・加賀両郡)に補任される。
出典:『赤松記』

長禄3年 1459年 10月5日 
赤松政則が加賀国半国守護(石川・加賀両郡)に補任されたことから、赤松勢が加賀国に入部するが、笠間において赤松勢は富樫成春被官・岩室帯刀と合戦をする。
出典:(長録3年)10月11日付浦上則宗・堀秀世・阿閉重能連署感状(「中村文書」「上月文書」)

長享3年 1489年 6月-日 
加賀の一向衆門徒が加賀国守護・富樫政親を討つ。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」

永禄7年 1564年 9月1日 
朝倉景鏡・朝倉景隆が加賀国に侵攻する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)

永禄7年 1564年 9月12日 
朝倉義景が一向一揆が支配する加賀国に総大将として出陣する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)

永禄7年 1564年 9月17日 
本折(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「大阪青山短期大学所蔵文書」)他

永禄7年 1564年 9月20日 
鵜谷口(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「花倉家文書」)

永禄9年 1566年 -月-日 
上杉輝虎が加賀国に攻め込み一向衆と戦う。
出典:永禄9年8月26日付顕如書状案(『顕如上人文案』)

天正5年 1577年 8月8日 
上杉謙信の攻撃を受けた七尾城(能登国)城主・長続連を救援すべく、織田信長柴田勝家を大将として滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀斎藤利治氏家直昌安藤守就稲葉一鉄不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近、若狭衆を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正7年 1579年 8月9日 
柴田勝家が加賀国に侵攻し、阿多賀・本折・小松町口を焼き払い、苅田をする。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正8年 1580年 9月6日 
柴田勝家に圧迫されている加賀一向一揆の藤丸勝俊が、上杉景勝に越中国・加賀国への出馬を請う。
出典:(天正8年)9月6日付藤丸勝俊書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2039号)

天正8年 1580年 11月20日 
織田信長のもとに、柴田勝家の使者が到着し、加賀国の一向一揆勢の大将19人をはじめ多くの一向衆を討ち取ったことを報告する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正9年 1581年 3月-日 
佐久間盛政が不動島(加賀国)にて蜂起した一向衆を討ち取る。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正10年 1582年 3月1日 
山内(加賀国)の一向一揆を柴田勝家が鎮圧する。
出典:『鷺森日記』同年月5日条

天正12年 1584年 9月11日 
末森城(能登国)を攻撃中の佐々成政前田利家が急襲する。利家が勝利する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月9日 
羽柴秀吉が加賀国より越前国に入る。
出典:『兼見卿記』同年月12日条

天正17年 1589年 10月10日 
豊臣秀吉が諸国に、来年3月、北条氏政を成敗するべく出陣するので、軍役として五畿内衆は半役、中国衆は4人役、四国以東尾張以西衆は6人役、北国は6人半役、遠江国・三河国・駿河国・甲斐国・信濃国は7人役を供出するようと命じる。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「来春関東陣御軍役之事」

天正18年 1590年 2月16日 
北条氏政攻めのため、前田利家利長父子が金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「上州松枝之城主成降人事」

慶長4年 1599年 閏3月3日 
前田利家が死去する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年3月2日条

慶長5年 1600年 7月26日 
申下刻(16時)、前田利長が小松(加賀国)に向けて出陣する。
出典:『小松軍記』「小松籠城」

慶長19年 1614年 1月26日 
前田利光より小田原(相模国)にいる徳川家康のもとに使者が到着する。利光より、高山重友内藤如庵をキリスト教徒により捕らえ、京都所司代の板倉勝重のもとに移送したこと、領内のキリスト教について宗旨替えしない者を記録し、家康の献上したことを、本多正信正純父子を介し家康に報告する。家康より、日本国内のキリスト教徒について、宗旨替えしない者については津軽(陸奥国)に流罪とすることを、正信・正純父子に命じ、両名がその触をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月13日 
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、前田利長の隠居領である能登国160000石について、前田利光に給付すべきか否か相談する。家康は前田家家老の前田長種、水原新左衛門、奥村栄頼本多政重を呼び、利光の妻である珠に30000石を給付すること、利光は若年によりよくよく後見するようにと命じる。家老衆は感涙し退出する。家老衆はそれぞれ家康に加賀絹50疋を献上する。また、利長の遺物である脇差(銘 不動正宗)・刀(銘 備前三郎)を家康に献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

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