人 物 史

朝倉景鏡 あさくら かげあきら
生 没 年大永5年?(1525?)-天正2年(1574)4/14
出 身-幼 名-
別 称孫八郎、土橋信鏡
法 名-
戒 名-
朝倉景高烏丸冬光の娘
兄 弟 姉 妹朝倉景鏡、朝倉景次
配 偶 者-
-
官 位式部大輔
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ朝倉景鏡の関連文化財
朝倉景鏡 年表
大永5年? 1525?年 -月-日 1歳
朝倉景鏡が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 4歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 8歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 31歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 34歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄7年 1564年 9月1日 40歳
朝倉景鏡・朝倉景隆が加賀国に侵攻する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)

永禄7年 1564年 9月12日 40歳
朝倉義景が一向一揆が支配する加賀国に総大将として出陣する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)

永禄7年 1564年 9月17日 40歳
本折(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「大阪青山短期大学所蔵文書」)他

永禄7年 1564年 9月20日 40歳
鵜谷口(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「花倉家文書」)

永禄10年 1567年 2月25日 43歳
足利義昭朝倉義景の居所・一乗谷(越前国)に入る。
出典:『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月16日 44歳
足利義昭織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に向かうべく一乗谷(越前国)を発つ。朝倉景恒と前波景当が国境まで警護する。義昭は浅井長政の館に入る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条、『綿考輯録』巻1

永禄13年 1570年 4月20日 46歳
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 46歳
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 46歳
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 46歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 46歳
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 46歳
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 46歳
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 46歳
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 46歳
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 46歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 46歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 46歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 9月16日 46歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢30000が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城(近江国)の森可成が軍勢1000で応戦し退ける。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月19日 46歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城主の森可成は応戦するも敗れる。可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎が戦死する。浅井・朝倉勢は宇佐山城(近江国)に攻め入るも武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門に退けられる。浅井・朝倉勢は大津の馬場・松本(近江国)を放火する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月28日 46歳
朝倉景恒が死去する。
出典:-

元亀1年 1570年 12月13日 46歳
織田信長勢が瀬田(近江国)まで撤兵すること、高島郡(近江国)に人質を送ることを条件に信長と朝倉義景が和睦する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀3年 1572年 7月29日 48歳
朝倉義景が軍勢15000を引き連れ小谷城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

天正1年 1573年 7月28日 49歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月12日 49歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 49歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 49歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 49歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正2年 1574年 4月14日 50歳
一向一揆が平泉寺(越前国)に籠る朝倉景鏡を攻め、景鏡が戦死する。
出典:-

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