天文12年 1543年 6月4日 |
三好政長が病の多賀常直に養生を勧める。 |
出典:(天文12年)6月4日付三好宗三書状(「板原家文書」『戦国遺文』三好氏篇第1巻-170号) |
天文12年 1543年 6月5日 |
室町幕府が薄以緒に、青花の売買について、座人以外による売買を停止するように命じる奉行人奉書を発給する。署名は治部貞兼、松田頼康。 |
出典:同年月日付室町幕府奉行人連署奉書案(『蜷川家文書』3-573号) |
天文12年 1543年 6月6日 |
波々伯部元継・田井長次が三好半隠軒に龍翔寺領下三栖の内、安芸宣司の下地1町余について以前は賦課されていなかった段銭や人夫について賦課されたので、賦課対象地から除くようにとの依頼がくる。 |
出典:(天文12年)6月6日付波々伯部元継・田井長次連署状案(「大徳寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-171号) |
天文12年 1543年 6月8日 |
三好政長が龍翔寺に対し、下三栖内の同寺領について、諸課役の賦課はこれまでなかったが、段銭の賦課は惣並であるので賦課したが、免除地とは知らなかったので、もし賦課する者がいたならば停止することを伝える。 |
出典:(天文12年)6月8日付三好宗三書状案(「大徳寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-173号) |
天文12年 1543年 6月27日 |
本願寺証如が京都の南方の所々を歴覧中の武田信虎のもとに音信を遣わす。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 7月2日 |
山科言経が生まれる。 |
出典:- |
天文12年 1543年 7月3日 |
尼子晴久が石見国に侵攻する。 |
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」 |
天文12年 1543年 7月11日 |
細川氏綱・藤賢兄弟が本願寺証如に書状を送る。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 7月14日 |
本願寺証如が細川氏綱・藤賢兄弟に返状を送る。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 7月14日 |
尼子晴久が秋上三郎左衛門、立原備前守、森脇長門守を先陣として久利城(石見国)を攻め、同城を落とす。 |
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」 |
天文12年 1543年 7月17日 |
織田信包が生まれる。 |
出典:- |
天文12年 1543年 7月18日 |
本泉寺蓮悟が死去する。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」 |
天文12年 1543年 7月24日 |
三好長慶が革島一宣に27日に松浦守を攻めるため、26日に堺に入ることを伝える。 |
出典:(天文12年)7月24日付三好長慶書状(「革島家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-179号) |
天文12年 1543年 7月28日 |
右大臣となる。 |
出典:『系図纂要』「三条」 |
天文12年 1543年 7月29日 |
28日夜より29日の日中までの火災により堺の大半が焼失する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 7月-日 |
細川氏綱が10000余の軍勢をもって槙尾城に入城する。 |
出典:『多聞院日記』同年月27日条 |
天文12年 1543年 8月1日 |
畠山義総が本願寺証如に、子・顕如の誕生を祝す音信を送る。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 8月3日 |
細川氏綱・藤賢兄弟が本願寺証如に出陣につき、和泉国・紀伊国にて氏綱方として一向一揆を起こしてほしいこと、兵粮を借用したい旨を書状にて伝える。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 8月6日 |
本願寺証如が、8月3日に細川氏綱・藤賢兄弟より依頼のあった和泉国・紀伊国における一向一揆蜂起と兵粮借用の件を断る旨を氏綱に伝える。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 8月7日 |
唐船5叟が豊後国に着津する。 |
出典:『豊薩軍記』巻1「宗麟政務並唐船渡海之事」 |
天文12年 1543年 8月9日 |
武田信虎が高野山に参詣の後、興福寺多聞院を訪れ逗留する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 8月15日 |
武田信虎が駿河国に向けて興福寺多聞院を出立する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 8月24日 |
本願寺証如が、細川晴元の芥川山城(摂津国)入城につき、晴元に太刀・5種10荷を贈る。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 8月29日 |
本願寺証如が畠山義総に8月1日の音信の返状を発給する。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 9月19日 |
足利義晴が御台料所芝山について、超勝寺が違乱をしているので、本願寺証如に違乱停止を命じるように依頼する。使者は杉原晴盛。晴盛は三献のもてなしを受ける。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 9月23日 |
本願寺証如が細川氏綱・藤賢兄弟、長塩又四郎、赤沢又三郎に音信を遣わす。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 9月24日 |
本願寺証如が浅井久政に音信を遣わす。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 10月1日 |
細川氏綱・藤賢兄弟、長塩又四郎、赤沢又三郎が9月23日の本願寺証如に対する返事を出す。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文12年 1543年 10月3日 |
松平清定が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平清定」の項 |
天文12年 1543年 10月20日 |
本願寺証如が細川晴元に、細川氏綱との戦いに勝利したことを祝す音信を遣わす。使者は八尾。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |