天文11年 1542年 9月24日 |
伊勢貞孝が建仁寺十如院の死去につき弔いに赴く。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 9月24日 |
武田晴信が諏訪(信濃国)侵攻の成就は諏訪法性上下大明神のおかげとして具足1両・馬1疋、伊奈にて100貫文の地を同神に寄進する。 |
出典:天文11年9月24日付武田晴信願文(「守矢家文書」『戦国遺文』武田氏編第1巻145号) |
天文11年 1542年 9月25日 |
武田晴信が信濃国諏訪郡宮川端・安国寺前にて合戦する。またこの合戦に功のあった水上時利・小山田信有・窪寺平次左衛門に感状を発給する。 |
出典:天文11年9月25日付武田晴信感状写(『戦国遺文』武田氏編第1巻145-146号) |
天文11年 1542年 9月25日 |
蜷川親俊が北野社に参詣する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 10月1日 |
伊勢貞孝が幕府に出仕する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 10月3日 |
細川晴元が丹波に向けて発ち、嵯峨(山城国)に逗留する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 10月6日 |
白河晴綱の使者として八槻別当が伊勢貞孝のもとを訪れ礼をする。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 10月7日 |
武田晴信が守矢頼真に対し神長職への永代にわたる諸役を免除する。 |
出典:天文11年10月7日付武田晴信判物(「守矢家文書」『戦国遺文』武田氏編第1巻149号) |
天文11年 1542年 10月12日 |
水谷勝俊が生まれる。 |
出典:- |
天文11年 1542年 10月17日 |
蜷川親俊が真如堂を訪れる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 10月22日 |
真如堂にて円頓戒が行われる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 10月23日 |
大門峠(信濃国)において武田晴信と村上義清・小笠原長時が戦う。 武田晴信勢:小田切光信(戦死)。 |
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)、『寛政重修諸家譜』巻第395「小田切某(光信)」の項 |
天文11年 1542年 10月25日 |
足利義晴が伊勢貞孝に鮭1尺を賜う。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 10月25日 |
蜷川親俊が北野社に参詣する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 10月26日 |
白河直広の偏諱と左京大夫任官について、細川晴元が請け負うので伊勢貞孝が直広の依頼を晴元に伝える。直広には「晴広」の名と左京大夫任官が認められる。これにつき、晴元の使者として筒井蔵人と富松与一、白河方の使者である八槻別当の派遣が決まり、白河晴綱、班目十郎、船田式部少輔、和知右馬助への蜷川親俊書状が調えられる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月1日 |
伊勢貞孝が幕府に出仕する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月11日 |
修理替物の費用について播磨・備前・美作の3ヶ国の国役によって賄うよう足利義晴が赤松晴政に命じる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月13日 |
足利義晴の代理として春日社に300-400名を引き連れ社参する。腹巻(紺糸)、太刀、馬を積蔵院に奉納する。新禅院の通り、転害の腹巻屋に宿泊する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月15日条 |
天文11年 1542年 11月19日 |
大坂本願寺の阿弥陀堂に新造の本尊を安置する。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月20日 |
大坂本願寺の親鸞像を新しい厨子に移す。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月20日 |
足利千歳丸が興福寺一乗院に入室する。供は朽木稙綱。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月20日 |
弟・千歳丸が興福寺一乗院に入室する。供は朽木稙綱。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月20日 |
子・千歳丸が興福寺一乗院に入室する。供は朽木稙綱。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月23日 |
細川晴元が丹波より上洛する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月25日 |
蜷川道運が北野社に参詣する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月26日 |
大内義隆が本願寺証如に、来年、渡唐船を派遣するので輸出品として瑪瑙を所望する。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 11月30日 |
伊勢貞孝が27ヶ日の参籠祈祷をした積蔵院に礼状を発給する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 12月1日 |
細川晴元、伊勢貞孝が幕府に出仕する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 12月12日 |
武田晴信が能浄寺に寺への狼藉、竹木の伐採、敷地内での殺生、寺内地への棟別賦課、門前棟別賦課、押立公事の禁じる制札を発給する。 |
出典:天文11年12月12日付武田晴信制札(「内藤家文書」『戦国遺文』武田氏編第1巻153号) |
天文11年 1542年 12月23日 |
足利菊童丸が参内する。供は細川右馬、ワカサノ一兎、細川晴経、上野与三郎、伊勢貞孝、緑阿、奉行衆の諏訪晴長、松田八郎左衛門尉、御走衆の飯川能登守、彦部、沼田、飯川彦九郎、宇治大路、水主。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |