慶長19年 1614年 12月19日 |
徳川家康・徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。 家康が藤堂高虎、仙石忠政と対面する。 家康が松平甲斐守、前田利光、松平忠直、加藤明成、福島忠勝、松平河内守と対面する。 家康が南光坊天海と対面する。 家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。 黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜』 |
慶長19年 1614年 12月19日 |
徳川家康・徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。 家康が藤堂高虎、仙石忠政と対面する。 家康が松平忠良、前田利光、松平忠直、加藤明成、福島忠勝、松平河内守と対面する。 家康が南光坊天海と対面する。 家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。 黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜』 |
慶長19年 1614年 12月20日 |
徳川家康・秀忠父子と豊臣秀頼の和睦につき、徳川勢・豊臣勢ともに鉄砲の撃ち合いを止める。双方、堀際の戦死者の遺体を回収する。 豊臣方の人質請取のため、後藤光次、寺田将監(本多正純家老)が大坂城(摂津国)に赴く。豊臣方は織田有楽の子と大野治長の幼児を人質として差し出すが、光次は治長の子息について幼児を出したことに激昂し、嫡子を差し出すように交渉する。治長は幼児を改め治徳を差し出す。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月20日 |
徳川家康・徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦成立につき、福留政親が旧主・長宗我部盛親のもとを訪れる。盛親が政親にどの手に属しているのか訪ねると、井伊直孝勢に与していることを答える。また、盛親より祖父・親政、父・儀重の戦功について語り、政親は感涙する。 |
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月20日 |
毛利輝元が山口(周防国)に到着する。 |
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年) |
慶長19年 1614年 12月21日 |
朝、徳川勢による大坂城(摂津国)の堀埋め立てが始まる。 |
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 12月23日 |
以心崇伝、日野唯心が徳川家康のもとに赴く。崇伝・唯心は、公家の諸記録の書写の件で、古今礼儀式法に誤りがあれば報告するようにと家康が公家衆に尋ねた件で、公家からの誤りの指摘はなかったことを家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月24日 |
大坂城(摂津国)攻めにつき、細川勢の出勢人数が定まる。 |
出典:『綿考輯録』巻19 |
慶長19年 1614年 12月24日 |
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久、板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。 徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信、土井利勝が家康のもとに残る。 織田有楽、大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎、本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。 巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光、福島忠勝、浅野長晟、鍋島勝茂、細川忠利、寺沢広高、池田利隆、池田忠継、池田忠雄、森忠政、有馬豊氏、稲葉典通、京極高知、山内忠義、堀尾忠晴、加藤明成、南部利直、毛利秀就、毛利秀元、吉川広家、福原広俊、松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝、本多忠朝、本多忠政、松平清正、本多康紀、松平忠利、水野勝成と対面する。 家康が南光坊天海、金地院崇伝と対面し雑談する。 家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。 秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月25日 |
辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純、成瀬正成、安藤直次が残る。 徳川秀忠が大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊、徳川頼宣も岡山に在陣する。 織田有楽、大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月25日 |
吉川広家が天王寺の居る徳川家康・秀忠父子のもとを訪れ、家督を子・広正に譲り、隠居することを願い出て許される。 |
出典:『寛政重修諸家譜』618「吉川」 |
慶長19年 1614年 12月26日 |
熊野(紀伊国)にて一揆が起こる。 |
出典:慶長20年6月10日付紀伊国一揆成敗之村数覚書(『浅野家文書』120号) |
慶長19年 1614年 12月26日 |
金地院崇伝、林羅山が徳川家康に命じられていた記録の内、旧事紀、古事記、続日本紀、文徳実録、三代実録、江次第、明月記、続文粋、菅家文集、西宮記、釈日本紀、内裡式、山槐記、類聚三代格等を献じる。 夕方、片桐且元が家康に対面する。板倉勝重が同席する。 家康が廓山と仏法について雑談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月26日 |
大坂城(摂津国)の堀埋めにつき、菅達長が主の藤堂高虎と口論となり、高虎より切腹を命じられる。達長・菅三郎兵衛父子は切腹する。 |
出典:- |
慶長19年 1614年 12月27日 |
岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月27日 |
徳川家康が以心崇伝、清林と対面する。 本多成重が家康に鱈を献上する。 家康が28日に参内するこをと板倉勝重に伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月28日 |
今川氏真が江戸(武蔵国)にて死去する。 |
出典:『北条氏過去帳』、『牛込御殿山久宝山万昌院鬼簿』、『明暗雙々集』 |
慶長19年 1614年 12月29日 |
島津家久が森江(豊後国)に到着する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項 |
慶長19年 1614年 12月29日 |
細川勢が小倉(豊前国)を出立し、門司(豊前国)に到着する。門司に到着した細川勢のもとに細川忠利より同勢へ徳川家と豊臣家の間で和睦が成立したので、帰陣するようにとの命がある。細川勢は当地より帰陣する。 |
出典:『綿考輯録』巻19 |
慶長19年 1614年 12月29日 |
徳川家康が以心崇伝、南光坊天海、信乗院、知恩院八宮、大覚寺門跡、一乗院、広橋大納言、三条大納言と対面する。 岡山の陣所にいる徳川秀忠の使者として伊丹康勝が徳川家康のもとに到着する。家康は兵粮を扶持することを伝える。 家康が富田信高の旧領である宇和島(伊予国)100000石を伊達秀宗に給付する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 12月-日 |
小笠原忠知が従五位下・壱岐守に叙位・任官する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第190「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠知」の項 |
慶長19年 1614年 -月-日 |
幕府が小笠原忠知に川中島(信濃国)5000石を給付する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第190「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠知」の項 |
慶長19年 1614年 -月-日 |
飯田昌在が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第143「飯田昌在」の項 |
慶長19年 1614年 -月-日 |
徳川家康が柳沢元吉に近江国蒲生郡内にて100石を給付する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元吉」の項 |
慶長20年 1615年 1月1日 |
伊東長実が徳川家康に礼をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 1月2日 |
徳川秀忠が岡山の陣所の軍勢不足につき、松平忠明、本多忠政を岡山の東に移す。 |
出典:『当代記』同年月日条、 |
慶長20年 1615年 1月3日 |
宗義智が死去する。 |
出典:- |
慶長20年 1615年 1月3日 |
午刻(11-13時)、徳川家康が駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』 |
慶長20年 1615年 1月4日 |
辰刻(7-9時)、徳川家康が船に乗り膳所(近江国)を出立する。松平正久、興安、後藤光次が同船する。矢橋(近江国)にて上陸し、申刻(15-17時)、水口(近江国)に到着する。代官の長野内蔵允が家康を饗応する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条 |
慶長20年 1615年 1月5日 |
卯刻(5-7時)、徳川家康が水口(近江国)を出立する。申刻(15-17時)、亀山(伊勢国)に到着する。伊勢亀山城(伊勢国)城主の松平忠明は大坂城(摂津国)の堀・櫓破却につき不在のため、留守居の者が家康を饗応する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条 |