天文10年 1541年 3月28日 |
内大臣となる。 |
出典:『系図纂要』「三条」 |
天文10年 1541年 4月1日 |
松平乗正が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第9「松平乗正」の項 |
天文10年 1541年 4月5日 |
大内義隆が友田興藤の籠る桜尾城(安芸国)を攻め、同城を落とす。 |
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収) |
天文10年 1541年 5月18日 |
在京中の梅戸高実に本願寺証如が天文7年6月19日の答礼として書状・太刀1腰・馬1疋を贈る。使者は麻生。下間頼慶が添状を発給する。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 5月-日 |
大内義隆方の毛利元就が武田信重の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻め、同城を落とす。信重は自害する。 |
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収) |
天文10年 1541年 6月11日 |
午刻前(23時前)、下間頼慶が死去する。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 6月18日 |
大内家警固衆の白井房胤が芸予諸島の村上氏を攻めるため上中嶋(伊予国)に着陣する。 |
出典:天文10年7月28日付白井房胤手負注文(『戦国遺文』瀬戸内水軍編47号「白井文書」) |
天文10年 1541年 6月18日 |
了如が死去する。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」 |
天文10年 1541年 6月20日 |
石清水八幡宮若宮造営および遷宮につき大和国に段銭を賦課したので興福寺と国民中とともに等祥蔵主を納めるよう命じる室町幕府奉行人連署奉書が木沢長政に発給される。 |
出典:天文10年6月20日付室町幕府奉行人連署奉書(『石清水文書』6-周囲49(『室町幕府文書集成 奉行人奉書篇 下』3473号)) |
天文10年 1541年 6月20日 |
法勝寺領延勝寺が退転したため、室町幕府が延勝寺敷地を法勝寺に還付する奉行人奉書を発給する。署名は飯尾堯連、中沢光俊。 |
出典:同年月日付室町幕府奉行人連署奉書(『蜷川家文書』3-559号) |
天文10年 1541年 6月29日 |
細川晴元が、妙観院領摂津国下郡御料所中・都賀荘要脚反銭賦課免除につき徴収催促を停止するよう三好範長(長慶)と平井新左衛門尉に命じる。 |
出典:天文10年6月29日付細川晴元奉行人奉書案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-148号「天城文書」) |
天文10年 1541年 7月19日 |
北条氏綱が死去する。 |
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」 |
天文10年 1541年 7月19日 |
大内義隆が熊谷信直に安芸国安北郡新庄75貫文の地を給付する。 |
出典:天文10年7月19日付大内義隆判物(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」124号) |
天文10年 1541年 7月24日 |
仁賀保挙政が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第205「仁賀保挙政」の項 |
天文10年 1541年 7月26日 |
芸予諸島の村上氏を攻めるため上中嶋(伊予国)に逗留していた大内家警固衆の白井房胤が上中嶋を発つ。 |
出典:天文10年7月28日付白井房胤手負注文(『戦国遺文』瀬戸内水軍編47号「白井文書」) |
天文10年 1541年 7月27日 |
豊後神宮寺に唐船が着津し、明人280名が大友義鎮のもとを訪れる。 |
出典:『豊薩軍記』巻1「宗麟政務並唐船渡海之事」 |
天文10年 1541年 7月28日 |
三好範長(長慶)が鈴江十左衛門尉に中庄内山口将監分を合力として給付する。 |
出典:天文10年7月28日付三好長慶書下(『戦国遺文』三好氏編第1巻-152号「鈴江家文書」) |
天文10年 1541年 7月30日 |
柳原淳光が生まれる。 |
出典:『系図纂要』「柳原」 |
天文10年 1541年 6月24日 |
大内家警固衆の白井房胤・小原隆右等が甘崎城(伊予国)を攻める。 |
出典:天文10年8月12日付大内義隆感状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編48号「白井文書」) |
天文10年 1541年 8月12日 |
三好政長、波多野氏が多田氏を討つべく出兵する。 |
出典:『巌助往年記 上』同年月条 |
天文10年 1541年 8月17日 |
本願寺証如が赤松晴政の音信として太刀・絞(浅黄入)20具を、晴政の家臣・祝融軒に太刀1腰・絞(萌黄入)5具を贈る。使者は下間伊予。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 8月18日 |
本願寺証如が笠置城(山城国)を落とし、同城に向かった木沢長政に音信として3種5荷を贈る。使者は藤井八郎左衛門。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 8月29日 |
北野社寺外会所の蔵円が東松崎郷(山城国)内毎阿弥分の3町余の日連歌料所(三淵晴員知行地の5段を除く)の当郷名主百姓による年貢未納を幕府に訴え、幕府が当郷名主百姓に年貢の納入を命じる奉行人奉書を発給する。署名は飯尾盛就、治部貞兼。 |
出典:同年月日付室町幕府奉行人連署奉書(『蜷川家文書』3-559号) |
天文10年 1541年 9月4日 |
杉宗珊が本願寺証如に音信として虎皮1枚・毛氈1枚を贈る。使者は福嶋祐賢。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 9月5日 |
本願寺証如が木沢長政のもとに朝倉孝景と和睦した旨を伝える使者を遣わす。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 9月7日 |
本願寺証如のもとに証如と朝倉孝景が和睦したことを喜ぶ使者を木沢長政が遣わす。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 9月21日 |
多田塩川要害を攻撃中の三好範長(長慶)のもとに、本願寺証如が音信として書状と3種5荷を贈る。使者は芝田宗九郎。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 9月23日 |
21日の本願寺証如の音信に対する三好範長(長慶)の返書が証如のもとに届く。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 10月2日 |
本願寺証如が細川元常に音信として3種5荷を贈る。使者は芝田宗九郎。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文10年 1541年 10月2日 |
三好長慶、波多野が塩川城(摂津国)を攻撃中、木沢長政が裏切ったため、長慶等は塩川城より撤退すると、京都にて風聞が伝わる。 |
出典:『惟房公記』同年月日条 |