人 物 史

山岡景隆 やまおか かげたか
生 没 年大永5年(1525)-天正13年(1585)
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
山岡景之-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
-
官 位美作守
役 職-
城 郭瀬田城(近江国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
山岡景隆 年表
大永5年 1525年 -月-日 1歳
山岡景隆が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 4歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
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天文1年 1532年 7月29日 8歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 31歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 34歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄12年 1569年 8月20日 45歳
織田信長が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって岐阜城(美濃国)を出陣する。桑名(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄12年 1569年 8月28日 45歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を包囲する。城の南に織田信包滝川一益、織田忠寛、稲葉良通池田恒興、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、蒲生賢秀、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、山岡景隆山岡景猶丹羽長秀が、城の西に木下秀吉氏家直元安藤守就、飯沼長資、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に柴田勝家森可成、山田勝盛、長谷川与次佐々成政、佐々政次、梶原景久、不破光治丸毛長照、丹羽源六、不破直光、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を前田利家がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 10月3日 45歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄12年 1569年 10月8日 45歳
織田信長大河内城(伊勢国)に子・茶筅を入れ、津田掃部を添え置く。安濃津城(伊勢国)・渋見城(伊勢国)・小造城(伊勢国)に滝川一益を入れ置く。伊勢国上野城に織田信包を入れ置く。伊勢国攻めの諸部隊を解散する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

元亀1年 1570年 4月23日 46歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 9月12日 47歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 49歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月8日 49歳
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日 49歳
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日 49歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日 49歳
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 49歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日 49歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日 49歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 49歳
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 49歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 49歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日 49歳
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 49歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 49歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正3年 1575年 7月12日 51歳
瀬田橋の柱立が行われる。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」

天正5年 1577年 3月2日 53歳
織田信長が鳥取郷(和泉国)の若宮八幡宮に陣を移す。堀秀政不破光治丸毛長照、武藤惣左衛門、福富秀勝、中条将監、山岡景隆、牧村長兵衛、福田三河、丹羽氏勝、水野大善、生駒市左衛門、生駒三吉等を根来口に遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月-日 53歳
土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 閏7月13日 53歳
織田信長が瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(5)「近衛殿御方御元服の事」

天正5年 1577年 10月1日 53歳
織田信忠安土城(近江国)を出発し、瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
松永久秀の与力・森秀光、海老名勝正が籠る片岡城(大和国)を、明智光秀細川藤孝筒井順慶、山城国衆が攻め、落とす。この城攻めで細川忠興・興元兄弟が天守に一番乗りで攻め入り、城主の森秀光、海老名勝正等150余を討ち取る。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」、『綿考輯録」巻3

天正5年 1577年 10月2日 53歳
織田信忠が槙島(山城国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正6年 1578年 9月23日 54歳
織田信長が上洛するため安土城(近江国)を出立し、瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正10年 1582年 6月2日 58歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月2日 58歳
明智光秀山岡景隆を勧誘するが、景隆はその誘いを断り、勢多橋を落として、居城・瀬田城(近江国)を自焼し、山中に逃亡する。
出典:『信長公記』巻15(34)「江州安土城御留守衆有様の事」

天正13年 1585年 1月14日 61歳
山岡景隆が死去する。
出典:-

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