人 物 史

丹羽氏勝 にわ うじかつ
生 没 年大永3年(1523)-慶長2年(1597)11/22
出 身尾張国幼 名-
別 称勘四郎、源六郎、勘助
法 名-
戒 名雪庭道加
丹羽氏識-
兄 弟 姉 妹丹羽氏勝、丹羽伝左衛門、女、女、女、女、某(勁松院)、上田近正、女、女、丹羽氏常、丹羽氏種、丹羽氏俊
配 偶 者織田信秀の娘
丹羽氏次丹羽氏重、娘(加藤忠景の妻)
官 位右近大夫
役 職-
城 郭岩崎城(尾張国)
参 考 文 献『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項
関 連 デ ー タ-
丹羽氏勝 年表
大永3年 1523年 -月-日 1歳
丹羽氏勝が生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

享禄1年 1528年 8月20日 6歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 10歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文19年 1550年 -月-日 28歳
子・氏次が尾張国岩崎にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏次」の項

天文20年 1551年 -月-日 29歳
横山(尾張国)にて織田信長丹羽氏識氏勝父子が戦い氏識・氏勝父子が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏識」の項

弘治1年 1555年 10月23日 33歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 36歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 38歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄8年 1565年 6月19日 43歳
父・氏識が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏識」の項

永禄11年 1568年 9月12日 46歳
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄12年 1569年 8月28日 47歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を包囲する。この城攻めに参加する。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄12年 1569年 -月-日 47歳
子・氏重が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏重」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏重」の項

永禄12年 1569年 -月-日 47歳
弟・氏重が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏重」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏重」の項

元亀1年 1570年 4月23日 48歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 6月26日 48歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 48歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 48歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 9月8日 48歳
織田信長が楼の岸(摂津国)に砦を築き、斎藤利治稲葉良通、中川重政を置く。川口に砦を築き、平手汎秀、長谷川与次、水野監物、佐々成政、塚本小大膳、丹羽氏勝、佐藤秀方、梶原景久、高宮右京亮を置く。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月9日 48歳
織田信長が天満が森に本陣を移す。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月12日 48歳
足利義昭織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月13日 48歳
本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月14日 48歳
本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 48歳
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

天正1年 1573年 7月28日 51歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正5年 1577年 3月2日 55歳
織田信長が鳥取郷(和泉国)の若宮八幡宮に陣を移す。堀秀政不破光治丸毛長照、武藤惣左衛門、福富秀勝、中条将監、山岡景隆、牧村長兵衛、福田三河、丹羽氏勝、水野大善、生駒市左衛門、生駒三吉等を根来口に遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正8年 1580年 8月17日 58歳
織田信長が大坂(摂津国)より京都に入る。林秀貞安藤守就丹羽氏勝に領内からの追放を命じる。
出典:『信長公記』巻13(10)「宇治橋御見物の事」(11)「佐久間、林佐渡、丹羽右近、伊賀伊賀守の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正10年 1582年 6月2日 60歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

文禄1年 1592年 12月8日 70歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 74歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 11月22日 75歳
丹羽氏勝が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

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