寺 院 史

本 尊阿弥陀如来
創 建-
開 基-
山 号-
宗 派浄土真宗
別 称-
関連宗教施設-
現 所 在 地三重県桑名市長島(所在地詳細不明)
旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク-
願証寺(長島)(伊勢国) 年表
天文5年 1536年 10月21日 
土岐氏より願証寺(長島)へ合力要請があったため、願証寺が本願寺証如へ対応を尋ねてくる。証如は合力してはならないと返答する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 3月5日 
木沢長政が尾張国の織田右衛門尉より依頼を受け、有事の際は本願寺証如から願証寺(長島)や興善寺に織田右衛門尉の味方をするよう依頼する。証如はその依頼を承諾する。
出典:『天文日記』同年月日条

元亀1年 1570年 11月21日 
長島一向一揆が織田信興が城主をつとめる小木江城(尾張国)を攻め、信興は応戦するも自害する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 5月12日 
織田信長願証寺(長島)を攻めるため津島(尾張国)に布陣する。中筋口より佐久間信盛、浅井新八、山田三左衛門、長谷川与次、和田新介、中嶋豊後を、大田口より柴田勝家、市橋長利、氏家卜全、伊賀平左衛門、稲葉良通、塚本小大膳、不破光治丸毛長照、飯沼勘平を遣わす。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 5月16日 
願証寺(長島)を攻めるため大田口を攻めていた柴田勝家氏家卜全等が所々を放火し引き上げたところ、一向一揆の攻撃を受け、勝家は負傷し、卜全は戦死する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

天正1年 1573年 9月24日 
織田信長が北伊勢に向けて岐阜城(美濃国)を発し、大垣城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 9月25日 
織田信長が大田城(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 9月26日 
織田信長桑名(伊勢国)に軍勢を遣わし、一向一揆が立て籠る西別所城(伊勢国)の攻撃を佐久間信盛羽柴秀吉蜂屋頼隆丹羽長秀に命じ、同城を落とす。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月6日 
一向一揆が立て籠る坂井城(伊勢国)を柴田勝家滝川一益が包囲し、同城が降伏する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月8日 
織田信長が東別所(伊勢国)に陣を移す。伊坂氏、萱生氏、赤堀氏、田辺氏、桑部氏、南部氏、長深氏、田辺九郎次郎、中嶋勘解由左衛門が信長に人質を差し出し降伏する。降伏しなかった白山の中嶋将監のもとに佐久間信盛羽柴秀吉蜂屋頼隆丹羽長秀を遣わし、中嶋を破る。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月25日 
織田信長が多芸山と長良川の間の節所を通行し願証寺(長島)に攻め入ろうとしたところ一向一揆勢の襲撃を受け撤退する。信長は大垣城(美濃国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月26日 
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正2年 1574年 7月13日 
織田信長信忠父子が願証寺(長島)に籠る一向一揆を攻めるため出陣し、津島(尾張国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 7月14日 
織田信長願証寺(長島)を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・信忠を大将として、織田信包、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤利治、簗田左衛門太郎、森長可、坂井越中守、池田恒興長谷川与次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、木下秀長、浅井新八、丹羽長秀氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条将監、川尻秀隆、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 7月15日 
織田信長願証寺(長島)攻めにつき、九鬼嘉隆滝川一益、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、島田秀満林秀貞が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・信忠ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として佐久間信盛信栄父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、不破直光丹羽長秀を置く。かろうと嶋の攻め手には、織田信包林秀貞、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、北畠信意神戸信孝、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 8月2日 
大鳥居に籠っていた一向一揆勢が風雨にまぎれた退城しようとしたところを織田信長が攻め殺す。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 8月12日 
篠橋に籠っていた一向一揆勢が、願証寺(長島)に忠節を誓うとの理由で織田信長に詫びを入れる。信長は篠橋の一向一揆勢の詫びを受け入れ、同勢の願証寺入寺を認める。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 9月29日 
織田信長願証寺(長島)包囲につき、餓死者が続出する。これにより信長に降伏を申し入れ、船にて寺を退散する一向一揆勢が鉄砲にて撃たれる。信長は中江城、屋長島に籠る一向一揆勢の男女20000人を包囲し火をつけ焼き殺す。この戦いで織田勢は織田信広が戦死する。
出典:『信長公記』巻7(10)「樋口夫婦御生害の事」

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