人 物 史

佐久間信栄 さくま のぶひで
生 没 年弘治2年(1556)-寛永8年(1632)11/23
出 身-幼 名-
別 称正勝、甚九郎、不干斎
法 名-
戒 名宗岩
佐久間信盛-
兄 弟 姉 妹佐久間信栄、佐久間信実、娘(安見右近大夫の妻)、娘(福島正頼の妻)
配 偶 者-
佐久間孫九郎、佐久間甚九郎、娘(織田貞置の妻)、娘(佐久間信勝の妻)、娘(安見元勝の妻)、佐久間信実[養子]、佐久間信勝[養子]、佐久間信重[養子]
官 位駿河守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
佐久間信栄 年表
弘治2年 1556年 -月-日 1歳
佐久間信栄が生まれる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 3歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 15歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 18歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正2年 1574年 7月15日 19歳
織田信長願証寺(長島)攻めにつき、九鬼嘉隆滝川一益、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、島田秀満林秀貞が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・信忠ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として佐久間信盛信栄父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、不破直光丹羽長秀を置く。かろうと嶋の攻め手には、織田信包林秀貞、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、北畠信意神戸信孝、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正3年 1575年 8月21日 20歳
織田信長が一乗谷(越前国)に入る。
吉田兼見に鮭を贈る。
佐久間信栄が一揆勢500名を討ち取り、10余名を生け捕りのうえ首をはねる。
風尾要害に籠っていた朝倉景健が信長に降伏を申し入れるが、信長は拒絶し、景健は自害する。
柴田勝家丹羽長秀が一揆勢1000余名を討ち取る。
出典:『多聞院日記』同年9月3日条、『兼見卿記』同年月日条、同年月22日付織田信長朱印状(『増訂織田信長文書の研究』535号)

天正4年 1576年 4月14日 21歳
本願寺顕如及び一向一揆が籠る大坂本願寺への路次を封鎖するため、荒木村重へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、明智光秀細川藤孝へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、原田直政天王寺に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には佐久間信栄、光秀および検使の猪子高就大津長昌を置く。
出典:『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月3日 21歳
早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月5日 21歳
辰刻(7-9時)、織田信長大坂本願寺に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の佐久間信盛が若江城(河内国)に攻め入る。
筒井順慶は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため一乗院尊政大乗院尋憲に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月6日 21歳
織田信長が若井(若江)(河内国)に在城する。
奈良(大和国)にて筒井順慶および松永久通の無事が伝わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月7日 21歳
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 21歳
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条

天正8年 1580年 8月12日 25歳
織田信長が、宇治(山城国)の橋を見物した後、大坂に赴く。当地にて、佐久間信盛信栄父子に折檻の条目を楠木正虎、松井友閑・中野又兵衛をもって伝え、遠国へ退出すべきよう命じる。
出典:『信長公記』巻13(10)「宇治橋御見物の事」(11)「佐久間、林佐渡、丹羽右近、伊賀伊賀守の事」、

天正9年 1581年 8月19日 26歳
佐久間信盛が十津川にて死去したと聞いた織田信長が、信盛の滞在していた高野山の宿坊の蔵に保管されていた信盛の所有物を差し押さえすべく使者を遣わす。しかし、使者は殺害されたため、諸国の高野聖を捕縛するという事件が起きる。23日に高野山攻めが行われると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月16日 27歳
熊野(紀伊国)にて父・信盛が死去する。信栄は赦免され、織田信忠に仕える。
出典:『信長公記』巻15(2)「御爆竹の事」、『当代記』巻2同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 37歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
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慶長1年 1596年 10月27日 41歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
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元和1年 1615年 7月13日 60歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

寛永1年 1624年 2月30日 69歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
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寛永8年 1631年 11月23日 76歳
佐久間信栄が死去する。
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