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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
人 物 史
島田秀満
しまだ ひでみつ
生 没 年
?-?
出 身
-
幼 名
-
別 称
所助、所之助、秀順
法 名
-
戒 名
-
父
-
母
-
兄 弟 姉 妹
-
配 偶 者
-
子
-
官 位
但馬守
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
史料にみえる島田秀満の呼称
島田秀満 年表
- -年 -月-日
島田秀満
が生まれる。
出典:-
元亀1年 1570年 4月29日
山科言継
が
織田信長
の京都(山城国)の宿所を訪れ、同所留守居の
島田秀満
、佐藤三河入道、猪子外記入道、鷹師衆と雑談する。
信長が越前国侵攻中のところ、義弟・
浅井長政
が信長を裏切り、
朝倉義景
に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀2年 1571年 9月12日
織田信長
が
延暦寺
、和邇、堅田、
坂本
(近江国)を焼き討ちする。
明智光秀
を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条
元亀3年 1572年 3月24日
武者小路の空き地に建設する
織田信長
の邸宅の鍬始めが行われる。普請奉行は
村井貞勝
・
島田秀満
、大工棟梁は池上五郎右衛門。
出典:『信長公記』巻5(1)「むしやの小路御普請の事」
元亀3年 1572年 5月16日
織田信長
屋敷の作事奉行である
島田秀満
のもとへ吉田兼見が2種両荷を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀3年 1572年 6月1日
吉田兼見が祈祷結願につき御守りを
島田秀満
に贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀3年 1572年 9月10日
村井貞勝
、
島田秀満
が
織田信長
の屋敷普請につき人足を公家衆に賦課する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀3年 1572年 9月24日
村井貞勝
、
島田秀満
が吉田郷(山城国)に藁を賦課するが、吉田兼見の訴えにより免除する。
出典:『兼見卿記』同年月日25条
元亀3年 1572年 10月22日
吉田兼見が
島田秀満
の病の息子の見舞いに訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀3年 1572年 10月23日
吉田兼見が
島田秀満
に病の秀満子息の病気平癒の祈祷をし、その鎮札を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀4年 1573年 2月22日
足利義昭
の城の普請につき吉田兼見より人足40人が訪れる。
義昭は兼見に鉄砲の灰木10束を進上するよう命じる。吉田郷には灰木がないとの訴えが兼見よりなされるが近郷から調達するようにと命じる。
織田信長
の使者として
島田秀満
、
松井友閑
が上洛する。両人の上洛は、義昭と信長の不和の噂につき、信長の意を伝えるため。
出典:『兼見卿記』同年月日条・3月6日条
元亀4年 1573年 3月6日
島田秀満
が息子を連れて吉田社に参詣する。鯉1、毛抜2を吉田兼見に贈る。兼見に自身が上洛したのは、
足利義昭
と
織田信長
の不和の噂が流れていることにつき、信長の意を伝えるためであると述べる。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀4年 1573年 3月8日
足利義昭
と
織田信長
の不和の噂について、
島田秀満
が信長の意向を義昭に伝えるが義昭は拒絶する。秀満はすみやかに
岐阜城
(美濃国)に向かう。秀満は吉田兼見に大津(近江国)にまでの人足を依頼し兼見は3人を供出する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀4年 1573年 3月29日
織田信長
勢の先陣が粟田口(山城国)を経て、午刻(11-13時)、三条河原に展開する。自身は逢坂(近江国)にて
細川藤孝
、
荒木村重
の迎えを受け、知恩院に入り本陣とする。軍勢を白川、粟田口、祇園。清水、六波羅、鳥羽、竹田に展開する。
柴田勝家
は吉田兼見より吉田郷の警固を依頼される。
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
は聖護院に陣取る。
足利義昭
は籠城する。
吉田兼見に兼見の所領である吉田郷への軍勢の陣取りはしないことを伝える。
兼見が信長のもとへ礼に訪れる。銀子1枚を贈る。兼見と対面する。義昭が戦闘行為をとったため軍勢を上洛させたと伝える。また、3月8日に
島田秀満
が京都より
岐阜城
(美濃国)へ下向した際、
大津
(近江国)までの人足を兼見が供出してくれたことについて謝し、吉田郷への軍勢の駐留を禁止する制札を発給する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」
元亀4年 1573年 4月1日
吉田兼見が訪れ
島田秀満
を訪れ両種2荷を贈る。兼見が
織田信忠
への礼をしたいというので、兼見をともない信忠の陣所を訪れる。
兼見が帰った後、
織田信長
より兼見に尋ねたいことがあるというので、兼見を呼び戻す。
出典:『兼見卿記』同年月日条
元亀4年 1573年 7月4日
織田信長
が
佐和山城
(近江国)に逗留する。佐和山山麓の小松原に大船を建造する。吉田兼見が見舞いとして訪れる。
島田秀満
が披露。大船建造中の浜にて兼見と対面する。兼見は秀満に帷1、
滝川一益
に五明5本、
羽柴秀吉
に五明5本を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正2年 1574年 7月15日
織田信長
が
願証寺(長島)
攻めにつき、
九鬼嘉隆
、
滝川一益
、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、
島田秀満
、
林秀貞
が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・
信忠
ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、
氏家直昌
、
安藤守就
、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには
柴田勝家
、
稲葉一鉄
、
稲葉貞通
、
蜂屋頼隆
を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として
佐久間信盛
・
信栄
父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、
不破直光
、
丹羽長秀
を置く。かろうと嶋の攻め手には、
織田信包
、
林秀貞
、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、
北畠信意
、
神戸信孝
、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」
天正3年 1575年 3月19日
島田秀満
が吉田兼見のもとに赴き、馬を預ける。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正3年 1575年 4月11日
早朝、
島田秀満
が吉田社に参詣する。兼見宅を訪れ、兼見と面会し、朝食をともにする。秀満は12日に西国下向につき兼見に暇乞いをする。兼見に美濃紙10帖、兼見の妻に毛抜3、満千代に爪切小刀2を贈る。
兼見が訪れる。兼見は秀満に湯懸け1具、弓の弦5張、御祓を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条
- -年 -月-日
島田秀満
が死去する。
出典:-
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