享禄4年 1531年 12月27日 |
従五位上に叙される。 |
出典:『公卿補任』天文14年 |
天文1年 1532年 -月-日 |
十河一存が生まれる。 |
出典:- |
天文1年 1532年 -月-日 |
村上武吉が生まれる。 *『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」に厳島合戦(弘治1年)の時点で「廿歳」とみえることから逆算してこの年を生年とした。 |
出典:『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」 |
天文1年 1532年 -月-日 |
大内義長が生まれる。 |
出典:- |
天文1年 1532年 -月-日 |
深水長智が生まれる。 |
出典:- |
天文1年 1532年 -月-日 |
大久保忠世が生まれる。 |
出典:- |
享禄5年 1532年 1月14日 |
清水寺執行円場院が山科言継のもとを訪れ牛玉と香水を贈る。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 1月19日 |
三好一秀が西岡(山城国)を放火する。 |
出典:『二水記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 1月20日 |
三好元長が下京の柳本城(山城国)を攻める。三好一秀に城の西側から攻めさせる。ただし矢合わせをし退く。 |
出典:『二水記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 1月22日 |
三好元長が下京三条の柳本城を攻撃し落とす。籠城していた柳本甚次郎・木島与吉兵衛尉・中井彦七を自害させる。 |
出典:『言継卿記』同年月日条、『二水記』同年月日条、『陰徳太平記』巻7「畠山総州三好開運自害之事」 |
享禄5年 1532年 1月23日 |
1月22日の三好元長による柳本甚次郎殺害の件で、細川晴元が細川持隆を折檻し、持隆と持隆被官人80が髻を切る。 |
出典:『二水記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 1月23日 |
三好元長が堺にて死亡したと京都で噂される。 |
出典:『二水記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 2月9日 |
加地宗三が久我通言の敷地である三条町屋の地子銭の代官職に補任されたことを当所百姓中に伝える。 宗三が通言領の洛中洛外局公事について通言より代官職に補任されたことを所々亭主中に伝える。 |
出典:(享禄5年)2月9日付加地為利書状(「久我家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-84号)、(享禄5年)2月9日付加地為利書状(「久我家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-85号) |
享禄5年 1532年 2月13日 |
山科言継が誓願寺に参詣する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 2月23日 |
三好元長が南禅寺真乗院に山城国紀伊郡深草にある同院領の散在地および末寺 栄松寺の知行を認める書下を発給する。 |
出典:享禄5年2月23日付三好元長書下(「真乗院文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-86号) |
享禄5年 1532年 3月5日 |
細川晴元が三好元長を成敗するため軍勢催促状を発給する。 |
出典:(享禄5年)3月5日付細川晴元書状(「末吉文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考13号) |
享禄5年 1532年 4月4日 |
弘法大師七百年忌の勧進として東寺宝菩提院を東国に下向させることを諸門徒中に周知させる室町幕府奉行人飯尾定広・松田盛秀の連署奉書が発給される。 |
出典:享禄5年4月4日付室町幕府奉行人連署奉書(「東寺文書」『室町幕府文書集成 奉行人奉書篇 下』3195号) |
享禄5年 1532年 4月6日 |
細川晴元が池田城(摂津国)に入城する。 |
出典:『私心記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 4月12日 |
三好開運が吉田兼右に吉田社領を安堵状を発給する。 |
出典:『兼右卿記』同年月12月24日条(『ビブリア』150号) |
享禄5年 1532年 7月11日 |
薬師寺国長が北白川(山城国)の吉田社領地子銭について違乱する藤田源介の違乱を止める書状を北白川百姓中および藤田源介に発給する。国長の本件に関する書状発給は、国長が細川晴元の申次で晴元が幼少のため、晴元の代理としてしたもの。 |
出典:『兼右卿記』同年月12月24日条(『ビブリア』150号) |
享禄4年 1531年 4月28日 |
泉涌寺勧進について禁裏より大内義隆に命じられる。義隆は分国中に命じることを禁裏に伝える。 |
出典:『後法成寺関白記』同年5月2日条 |
享禄5年 1532年 5月6日 |
善光寺の十穀が山科言継のともを訪れ、勧進帳の書写(仮名書を真名書に変換)を依頼する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 5月11日 |
5月6日に善光寺の十穀が山科言継に依頼した勧進帳の書写がなり、十穀が請け取る。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 5月19日 |
畠山義堯が木沢長政の飯盛山城(河内国)を攻める。 |
出典:『細川両家記』 |
享禄5年 1532年 6月15日 |
畠山義堯が木沢長政の籠る飯盛山城(河内国)を攻撃していたところ、細川晴元が長政を救援すべく、本願寺証如に門徒の動員を依頼する。証如は30000の門徒勢を動員し飯盛山城の後詰に赴かせ畠山勢を破る。義堯は石川の道場にて自害する。 |
出典:『細川両家記』 |
享禄5年 1532年 6月20日 |
細川晴元が本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所である堺の顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。 |
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条 |
享禄5年 1532年 6月27日 |
落雷により清水寺内の滝への廊と廊の前の腰掛所、巡礼堂が破壊する。 |
出典:『言継卿記』同年6月28日条 |
享禄5年 1532年 6月29日 |
山科言継が清水寺に参詣する。路次に人々が群集し、市ができているが、これは「近来」のことであるという。言継は落雷により破損したところ見物し、「怪異之事」と嘆じる。滝へと向かう廊は浅井亮政が建立したものであり、落雷による怪異が亮政に災いをもたらすのか、清水寺にもたらすのか、はたまた天下にもたらすのかと噂される。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
享禄5年 1532年 7月19日 |
一向一揆勢2000が山崎(山城国)に攻め込み西岡衆と戦う。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文1年 1532年 7月29日 |
「享禄」より「天文」に年号が改まる。 |
出典:- |