天文8年 1539年 7月7日 |
足利菊童丸が伊勢貞孝邸を訪れる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月14日 |
三好政長が高雄(山城国)より妙心寺・西京に攻め入ったのを受け、三好利長(長慶)が山崎(山城国)より三好伊賀守を金乗寺に出陣させる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月21日 |
吉祥城(山城国)を三好利長(長慶)が攻め落とす。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月22日 |
伊勢貞孝が有馬晴純よりの偏諱および修理大夫任官の礼に対し返書を発給する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月22日 |
三好政長在陣につき本願寺証如が音信として3種5荷を贈る。 |
出典:天文8年7月22日付本願寺証如書状案(『戦国遺文』三好氏篇第1巻-124号『天文書札案』) |
天文8年 1539年 7月23日 |
細川晴元が茨木長隆を伊勢貞孝のもとに遣わし、洛中洛外を除く西国に徳政令の発布を提案する。貞孝より足利義晴にその旨の披露があり、義晴は六角定頼に相談せよと返答する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月23日 |
赤松晴政、別所就治に足利義晴への礼を披露した旨を伝える。 細川晴元より茨木長隆が使者としてやってきて、洛中洛外を除く西国に徳政令の発布をしてはと提案を受ける。貞孝は足利義晴にその旨を披露したところ、六角定頼に相談せよとの返答を受ける。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月24日 |
伊勢貞孝のもとに陸奥国の赤萩伊豆守が礼に訪れる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月25日 |
足利義晴が上京・下京での徳政を停止する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月25日 |
上京・下京での徳政停止につき、伊勢貞孝が政所公人・開闔雑色をもって触れさせる。これにつき上京・下京の土倉が5荷3種を貞孝に進上する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月25日 |
足利義晴が上京・下京での徳政を停止する。 細川晴元が高雄より嵯峨(山城国)に陣替えする。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月27日 |
高雄(山城国)に在陣中の細川晴元のもとに本願寺証如が音信として書状と5種10荷を遣わす。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 7月29日 |
富松与次が陸奥下向につき伊勢貞孝のもとを暇乞いに訪れる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月1日 |
足利義晴が後奈良天皇に太刀1腰、馬1疋を、足利菊童丸太刀1腰、馬1疋を進上する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月1日 |
伊勢貞孝が幕府に出仕する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月7日 |
黒谷の真如堂に蜷川親俊、三上越前守が参詣する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月8日 |
伊勢貞孝が病のため鞍馬(山城国)にて養生中の武田元光のもとへ見舞いに赴く。太刀(吉宗)、腰物(正弘)を贈る。元光より太刀(国行)、腰物(則光)が贈られる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月9日 |
伊勢貞孝のもとへ武田元光より使者として粟屋式部が訪れる。3献にてもてなす。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月9日 |
三好政長が松崎名主百姓中に松崎内にある大徳寺領田地分の年貢・諸公事物の寺納を命じる書状を発給する。 |
出典:天文8年8月9日付三好政長書状案(『戦国遺文』三好氏篇第1巻-125号「大徳寺文書」) |
天文8年 1539年 8月10日 |
権大納言となる。 |
出典:『系図纂要』「柳原」 |
天文8年 1539年 8月13日 |
足利菊童丸が八瀬(山城国)より戻る。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月13日 |
三好利長(長慶)と三好政長の対立のことにつき、六角定頼が坂本(近江国)に赴く。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月14日 |
三好利長(長慶)が越水城(摂津)に入城したのを祝し、音信として書状と3種5荷を遣わす。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月14日 |
細川元常が坂本(近江国)に下向する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月23日 |
坂本(近江国)に滞在中の六角定頼より伊勢貞孝のもとへ馬、太刀、10荷10合が贈られる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 8月23日 |
左近衛中将となる。 |
出典:『公卿補任』天文15年 |
天文8年 1539年 8月24日 |
上京・下京の地下人から申請のあった徳政停止について六角定頼と相談し、定頼より徳政停止で問題なしとの返答を受けたことから、松田晴秀に徳政停止を施行するよう伝える。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 9月6日 |
大友家の被官 斎藤掃部助、斎藤新左衛門尉、津久見が伊勢貞孝にもとに礼に訪れ、太刀、馬を贈られる。貞孝は3献にてもてなす。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 9月9日 |
伊勢貞孝が幕府に出仕する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文8年 1539年 9月10日 |
赤松晴政より公方への礼が遅れたことを謝す飛脚が蜷川親俊にもとに到着する。難波備前守の書状あり。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |