総年表 検索


和暦 :   西暦 :   月  日 
事項 :   
出典 :   


元亀3年 1572年 12月28日
右大弁となる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

天正1年 1573年 -月-日
里見義康が生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日
竹中重門が生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日
が近江国小谷城にて生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日
松平家乗が三河国大給にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第9「松平家乗」の項

天正1年 1573年 -月-日
福島高晴が尾張国海東郡にて生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日
九鬼守隆が生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日
渥美友真が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友真」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友真」の項

天正1年 1573年 -月-日
岩間正時が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第964「岩間正時」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第964「岩間正時」の項

天正1年 1573年 -月-日
近藤季用が生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日
小倉吉次が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第398「小倉吉次」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第398「小倉吉次」の項

元亀4年 1573年 1月1日
村上義清が死去する。
出典:-

元亀4年 1573年 1月10日
吉田兼右が死去する。
出典:-

元亀4年 1573年 1月11日
武田信玄菅沼定盈松平忠正の守る野田城(三河国)を攻める。定盈・忠正は城兵の助命嘆願のため切腹することを信玄に申し出たところ、信玄は偽って定盈・忠正を許し、城を出てきたところをとらえ、信玄に仕えるように両名に言い渡す。定盈・忠正は信玄の申し出を拒否する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

元亀4年 1573年 2月6日
岩倉(山城国)の山本、渡辺昌、磯谷久次が明智光秀に叛く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月10日
山本、渡辺昌、磯谷久次が近江に在陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月11日
吉田兼見が明智光秀のもとへ見舞いの使者を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月13日
佐竹義重が宇都宮(下野国)に帰陣する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義重」の項

元亀4年 1573年 2月17日
足利義昭が城の中堀2間分を吉田兼見に課す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月19日
足利義昭の城の普請につき吉田兼見より吉田兼有と人足30人が訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月20日
織田信長柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に、足利義昭の臣・山岡光浄院が籠る石山城(近江国)の攻撃を命じ、勝家等の諸勢が出陣する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月22日
足利義昭の城の普請につき吉田兼見より人足40人が訪れる。
義昭は兼見に鉄砲の灰木10束を進上するよう命じる。吉田郷には灰木がないとの訴えが兼見よりなされるが近郷から調達するようにと命じる。
織田信長の使者として島田秀満松井友閑が上洛する。両人の上洛は、義昭と信長の不和の噂につき、信長の意を伝えるため。
出典:『兼見卿記』同年月日条・3月6日条

元亀4年 1573年 2月23日
吉田兼見が鉄砲の灰木7束を足利義昭に進上する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月24日
柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆が、瀬田(近江国)を渡り山岡光浄院が籠る石山城(近江国)を攻める。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月25日
愛宕山西坊(威徳院)が吉田兼見より書籍の一時保管を依頼される。西坊は承諾する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月26日
石山城(近江国)に籠る山岡光浄院が、同城を攻める織田家の柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に降伏し、城より退城する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月28日
愛宕山西坊(威徳院)が吉田兼見より書籍を預かる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 2月29日
辰刻(7-9時)、足利義昭方の今堅田城(近江国)を丹羽長秀明智光秀蜂屋頼隆が攻める。光秀は琵琶湖上から攻撃し城を落とす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 3月6日
吉田兼見が足利義昭のもとを訪れ、鍬を進上する。松田監物が披露する。兼見と対面する。亡くなった吉田兼右のことついて話をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月6日
吉田兼見が足利義昭のもとを訪れ、鍬を進上する。松田監物が披露する。兼見と対面する。亡くなった吉田兼右のことついて話をする。
島田秀満が息子を連れて吉田社に参詣する。鯉1、毛抜2を吉田兼見に贈る。兼見に自身が上洛したのは、足利義昭と織田信長の不和の噂が流れていることにつき、信長の意を伝えるためであると述べる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.