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元亀4年 1573年 3月6日
島田秀満が息子を連れて吉田社に参詣する。鯉1、毛抜2を吉田兼見に贈る。兼見に自身が上洛したのは、足利義昭織田信長の不和の噂が流れていることにつき、信長の意を伝えるためであると述べる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月8日
足利義昭織田信長の不和の噂について、島田秀満が信長の意向を義昭に伝えるが義昭は拒絶する。秀満はすみやかに岐阜城(美濃国)に向かう。秀満は吉田兼見に大津(近江国)にまでの人足を依頼し兼見は3人を供出する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月9日
愛宕山西坊(威徳院)が吉田兼見より書籍を預かる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月11日
高山重友高槻城(摂津国)内にて和田惟長に叛き、惟長を殺害しようとする。惟長は重傷を負い天守閣に籠るも、家中の者の仲介により惟長は退城する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月15日
武田信玄が、捕虜としていた菅沼定盈松平忠正を、徳川家康のもとに捕らえられていた山家三方衆の人質と交換することを家康に提案し、家康は受け入れる。広瀬川にて捕虜・人質の交換がなされる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

元亀4年 1573年 3月18日
土井利勝が生まれる。
出典:-

元亀4年 1573年 3月20日
足利義昭上杉謙信武田信玄本願寺顕如との和睦を促す使者・書状を送る。
出典:(元亀4年)3月20日付足利義昭御内書(『上越市史 別編1 上杉氏文書集』1144号)

元亀4年 1573年 3月22日
篠原長房三好長治の居城・勝瑞城(阿波国)を去り、所領の河島(阿波国)に退去する。
出典:『南海通紀』巻10「阿州河島合戦記」

元亀4年 1573年 3月29日
賀茂(山城国)に陣所を構える明智光秀のもとに吉田兼見が訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月29日
織田信長勢の先陣が粟田口(山城国)を経て、午刻(11-13時)、三条河原に展開する。自身は逢坂(近江国)にて細川藤孝荒木村重の迎えを受け、知恩院に入り本陣とする。軍勢を白川、粟田口、祇園。清水、六波羅、鳥羽、竹田に展開する。柴田勝家は吉田兼見より吉田郷の警固を依頼される。丹羽長秀蜂屋頼隆は聖護院に陣取る。
足利義昭は籠城する。
吉田兼見に兼見の所領である吉田郷への軍勢の陣取りはしないことを伝える。
兼見が信長のもとへ礼に訪れる。銀子1枚を贈る。兼見と対面する。義昭が戦闘行為をとったため軍勢を上洛させたと伝える。また、3月8日に島田秀満が京都より岐阜城(美濃国)へ下向した際、大津(近江国)までの人足を兼見が供出してくれたことについて謝し、吉田郷への軍勢の駐留を禁止する制札を発給する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 4月1日
織田勢の本陣である知恩院にいる織田信忠のもとへ吉田兼見が礼に訪れる。奏者は梶原平右衛門。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月1日
織田信長が吉田兼見に南都が荒廃し北嶺(延暦寺)も破滅すると王都である京都の災いになるというがそれは確かなことであるのかを問う。兼見は南都北嶺が滅亡しても王城は滅しないと返答する。信長はこれを聞き喜ぶ。吉田社の修理を約束する。兼見に金子1枚を下賜する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月1日
吉田兼見が訪れ島田秀満を訪れ両種2荷を贈る。兼見が織田信忠への礼をしたいというので、兼見をともない信忠の陣所を訪れる。
兼見が帰った後、織田信長より兼見に尋ねたいことがあるというので、兼見を呼び戻す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月2日
禁裏の音信の使者として吉田兼見が織田信長の本陣である知恩院を訪れる。女房奉書、引合10帖、金襴1巻が贈られる。村井貞勝が披露する。兼見と対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月3日
東山に展開させていた織田信長の軍勢が陣払いをし、賀茂・西京より嵯峨を打ち廻り、所々を放火する。本陣である知恩院より出勢はなし。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月4日
丑刻(1-3時)、織田信長が西陣(山城国)を放火する。足軽を洛中に乱入させ放火。上京の二条より北を悉く焼き討ちにする。等持寺を本陣とする。
吉田兼見が等持寺にいる信長のもとへ陣中見舞いに訪れ、強飯、菓子1両種が贈られる。兼見より禁裏の近くまで類火が及んでおり放火を停止するよう求められる。もし、禁裏に火が及ぶ場合は、吉田社への正親町天皇の臨幸を考えている旨を伝えられる。それに対し信長は、兼見の気遣いを称し、村井貞勝を警固につけることを約す。また、兼見に舂木を添え、禁裏に害が及ばないようにすることを伝える。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(4)「公方様御構取巻きの上にて御和談の事」

元亀4年 1573年 4月5日
禁裏が足利義昭織田信長の争いを調停すべく、勅使として二条晴良、三条実澄、庭田重保を織田勢の本陣である知恩院に派遣する。勅使3名は信長と対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月7日
織田信長が和睦の使者として織田信広佐久間信盛細川藤孝足利義昭のもとに遣わす。義昭は3名に対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月8日
巳刻(9-11時)、織田信長岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月9日
吉田兼見が足利義昭のもとを訪れる。兼見が義昭に盆、硯(紫石)を進上する。槙島昭光が披露する。奥御殿にて兼見と対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月12日
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

元亀4年 1573年 4月13日
足利義昭が槙島(山城国)に移ると噂される。実際には移っていないが、退城は内々で決定していることを吉田兼見が松田監物より知らされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月20日
足利義昭が御所の普請を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月21日
足利義昭の御所の普請につき、吉田兼見は人足を召し連れ天守の壁の修復を行い完成させる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月27日
足利義昭織田信長の和睦が成立する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月28日
足利義昭が御所の堀の普請を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 5月15日
織田信長佐和山城(近江国)に入る。長さ27間、幅9間の大船の建造を近江国にて行う。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 5月20日
三好長治篠原長房を討つべく、勝瑞城(阿波国)より十河存保を大将として長房領の河島(阿波国)に軍勢を遣わす。
出典:『南海通紀』巻10「阿州河島合戦記」

元亀4年 1573年 6月8日
足利義昭が吉田社の馬場の松の木5本を吉田兼見に所望する。兼見は伐採免除を願い出るが受け入れず松の木5本を得る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 6月9日
内大臣となる。この日、万里小路惟房が死去する。
出典:『系図纂要』「万里小路」

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