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天正10年 1582年 8月27日
北条氏直方の豆生田砦を徳川家康勢の榊原康政大須賀康高が攻める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正10年 1582年 8月28日
長宗我部元親勝瑞城(阿波国)を攻めるべく、軍勢を香宗我部親泰を大将とする勢と長宗我部親吉を大将とする二手に分ける。一宮成助、桑野康明が先陣。これに対し、三好存保は勝瑞城より出陣し、勝興寺に本陣を、先陣を中富川に置く。中富川にて元親と存保が戦い、元親が勝利する。戦後、元親は勝瑞城を攻めるべく同城の北にある龍音寺に陣取る。
出典:『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」・「勝瑞城攻記」

天正10年 1582年 8月28日
長宗我部元親勝瑞城(阿波国)を攻めるべく、軍勢を香宗我部親泰を大将とする勢と長宗我部親吉を大将とする二手に分ける。一宮成助、桑野康明が先陣。これに対し、三好存保は勝瑞城より出陣し、勝興寺に本陣を、先陣を中富川に置く。中富川にて元親と存保が戦い、元親が勝利する。親泰は三好勢の軍奉行・矢野伯耆守を討ち取る。
出典:『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」

天正10年 1582年 8月28日
長宗我部元親勝瑞城(阿波国)を攻めるべく、軍勢を香宗我部親泰を大将とする勢と長宗我部親吉を大将とする二手に分ける。一宮成助、桑野康明が先陣。これに対し、三好存保は勝瑞城より出陣し、勝興寺に本陣を、先陣を中富川に置く。中富川にて元親と存保が戦い、元親が勝利する。長宗我部信親は元親の制止を振り切り川を押し渡り三好勢に攻め入る。
出典:『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」

天正10年 1582年 8月28日
長宗我部元親勝瑞城(阿波国)を攻めるべく、軍勢を香宗我部親泰を大将とする勢と長宗我部親吉を大将とする二手に分ける。一宮成助、桑野康明が先陣。これに対し、三好存保は勝瑞城より出陣し、勝興寺に本陣を、先陣を中富川に置く。中富川にて元親と存保が戦い、元親が勝利する。長宗我部勢として合戦に参加する。
出典:『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」

天正10年 1582年 8月28日
長宗我部元親勝瑞城(阿波国)を攻めるべく、軍勢を香宗我部親泰を大将とする勢と長宗我部親吉を大将とする二手に分ける。一宮成助、桑野康明が先陣。これに対し、三好存保は勝瑞城より出陣し、勝興寺に本陣を、先陣を中富川に置く。中富川にて元親と存保が戦い、元親が勝利する。長宗我部勢として合戦に参加する。子の戦いで三好勢は矢野伯耆守・備後守父子、赤沢宗伝・鹿之丞父子、西条益大夫、馬詰三四郎、岡甚之丞、七条孫次郎、坂東肥後守・五郎右衛門兄弟、三好何右衛門、竹内笹右衛門、大代内匠、姫田甚左衛門、野本左近、長塩六之進、北原右近、大寺松大夫、近藤内蔵助、野中玄蕃、香美右馬允が戦死する。
出典:『南海通紀』巻15「阿州中富川合戦記」

天正10年 1582年 8月29日
上杉景勝安田に至り上野に着陣する。
出典:(天正10年)8月29日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2550号)

天正10年 1582年 8月30日
徳川家康が北条氏直勢の籠る豆生田城(甲斐国)を攻め、落とす。
徳川家康勢:木内蕃正
出典:『寛政重修諸家譜』巻第964「木内蕃正」の項

天正10年 1582年 8月-日
伊達政宗が角田(陸奥国)より金津(陸奥国)に陣を移す。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

天正10年 1582年 8月-日
伊達政宗が金津(陸奥国)より矢目(陸奥国)に陣を移す。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

天正10年 1582年 9月1日
筒井順慶春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 9月5日
羽柴秀吉安宅神五郎の阿波家領田村分と仙石秀久付となった淡路衆7名分以外の本知行分を安堵する。また岩屋(淡路国)の麓に抱えていた90石の地を間嶋氏勝に渡し、替地として90石を仙石秀久知行の内から給付される。
出典:(天正10年)9月5日付羽柴秀吉書状・中村一氏書状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1938・1939号、ともに「萩原文書」)

天正10年 1582年 9月5日
この頃、仙石秀久淡路国の船越三郎兵衛と船越源大兵衛など7名の淡路衆を与力として付される。
出典:(天正10年)9月5日付羽柴秀吉書状・中村一氏書状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1938・1939号、ともに「萩原文書」)

天正10年 1582年 9月9日
羽柴秀吉勧修寺晴豊に、織田信長の葬儀執行につき、羽柴秀勝に準備を命じているが葬儀を行う寺院については決めていないので、どの寺でも構わないので勅定を下してもらえるよう依頼する。
家臣に所領を宛行う。
川勝秀氏に丹波国何鹿郡内上林三分之二方3535石を宛行う。
堀尾吉晴に丹波国氷上郡内の6284石を宛行う。
出典:天正10年9月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-483号)、天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-484号)、天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状(『豊臣秀吉文書集』1巻-485号)

天正10年 1582年 9月9日
羽柴秀吉勧修寺晴豊に、織田信長の葬儀執行につき、羽柴秀勝に準備を命じているが葬儀を行う寺院については決めていないので、どの寺でも構わないので勅定を下してもらえるよう依頼する。
出典:天正10年9月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-483号)、天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-484号)、天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状(『豊臣秀吉文書集』1巻-485号)

天正10年 1582年 9月9日
羽柴秀吉堀尾吉晴に丹波国氷上郡内の6284石を給付する。
出典:天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状(『豊臣秀吉文書集』1巻-485号)

天正10年 1582年 9月9日
徳川家康津金胤久に甲斐国津金郷、信濃国機郷、上野国下高田・清水の内にて192貫の地と村山郷・三蔵郷・比志郷内にて263貫の地を給付し、胤久は総じて450貫を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第173「津金胤久」の項

天正10年 1582年 9月12日
この頃、羽柴秀吉仙石秀久に淡路衆を連れて勝瑞城(阿波国)に入城するように命じる。
出典:(天正10年)9月12日付羽柴秀吉書状(『戦国遺文』三好氏編3巻-参考146号、「黒田家文書」)

天正10年 1582年 9月12日
篠原自遁より羽柴秀吉勝瑞城(阿波国)のことにつき注進があったため、秀吉が仙石秀久に淡路衆を引き連れ出陣するように命じる。また、生駒親正・明石則実に篠原自遁の居城まで渡海するように命じる。加えて黒田孝高に野口孫五郎の居城まで赴き、親正・則実の渡海を支援するように命じる。
出典:天正10年9月12日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-487号)

天正10年 1582年 9月13日
尊鎮33回忌法会を執行する。調声:梶井宮最胤、伽陀:真如堂全海、錫杖:良慶。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正10年 1582年 9月13日
筒井順慶が奈良(大和国)において法量の定めがないため銭定の札を打つ。割れ、欠け、鉛銭以外は用いないようにする。
出典:『多聞院日記』同年月16日条

天正10年 1582年 9月21日
男子が生まれる。
出典:『多聞院日記』同年月27日条

天正10年 1582年 9月21日
三好存保が東条関之兵衛を通じ長宗我部元親に降伏を申し出る。元親は申し出を拒絶するが、存保が今後二度と元親に敵対しない旨を誓詞を提出すると申し出たので、元親は存保の降伏を受諾する。元親は黒田原に陣を引き、存保は讃岐国に引き挙げる。
出典:『南海通紀』巻15「勝瑞城攻記」

天正10年 1582年 9月25日
筒井順慶が26日に山崎(山城国)の財寺城にいる羽柴秀吉のもとへ見舞いに赴くため上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 9月27日
筒井順慶山崎(山城国)より奈良(大和国)に帰り、中坊に宿泊する。
伊賀国に軍勢3000を遣わす。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 9月29日
筒井順慶春日社御供所の屋根葺き替えのため1000石を寄進する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 9月-日
長宗我部元親が、牛岐城(阿波国)に香宗我部親泰を、一宮城(阿波国)に江村孫左衛門を、一宮南城(阿波国)に谷忠澄を、岩倉城(阿波国)に長宗我部掃部頭を、吉田城(阿波国)に北村閑斎を、宍咋城(阿波国)に野中三郎左衛門を、木津城(阿波国)に東条関之兵衛を、渭山城(阿波国)に吉田孫左衛門を、脇ノ城(阿波国)に長宗我部親吉を置く。
出典:『南海通紀』巻15「土州元親阿波国平治記」

天正10年 1582年 10月1日
筒井順慶春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 10月6日
丹羽長秀芦浦観音寺の本知行分470石と志那渡船のことについて安堵する。
出典:天正10年10月6日付丹羽長秀安堵状(「芦浦観音寺文書」)

天正10年 1582年 10月15日
羽柴秀吉大徳寺にて織田信長の葬儀を執り行う。葬列で秀吉は位牌と太刀を持つ。
出典:『天正記』「惟任謀叛記」

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