和暦 |
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事項 |
出典 |
- | - | - | - | - | 池田長正が生まれる。 | - |
天文15年 | 1546 | 9 | 11 | - | 三好長慶が池田城(摂津国)を攻める。 | 『私心記』同年月日条 |
天文15年 | 1546 | 11 | 25 | - | 三好長慶が池田城(摂津国)を攻める。 | 『私心記』同年月日条 |
天文17年 | 1548 | 8 | 11 | - | 三好長慶と伊丹親興が池田長正の池田城(摂津国)に夜討ちをかけ、城を焼き討ちにする。 | 『私心記』同年月日条 |
天文18年 | 1549 | 1 | 24 | - | 三好政長が多田衆を率い池田市場(摂津国)に朝早く攻め入り焼き討ちする。 | 『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」 |
天文18年 | 1549 | 6 | 24 | - | 十河一存が単独で細川晴元の居所である三宅城(摂津国)を攻撃する。一存の三宅城攻撃を受けてもなお三好長慶は細川晴元との戦いは避け、三好宗三の籠る江口城を攻撃し、落とす。この戦いで宗三、高畠長直、高畠長信が戦死する。晴元は政長の敗報を受け嵯峨(山城国)に逃れる。 | 『私心記』同年同月条、『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」、『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、 |
天文18年 | 1549 | 8 | 24 | - | 三好長慶が伊丹親興の籠る伊丹城(摂津国)を落とすため伊丹城への向城を築く。城の東は森本に池田長正、南は恒富前田城に淡路国衆、西は御願塚に三好勢、北西は小屋城に小川式部丞を配置する。 | 『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」 |
天文21年 | 1552 | 5 | 23 | - | 芥川孫十郎・池田長正・小川式部丞が三好長慶に謀叛を起こすとの噂が流れる。これを受け、長慶は夜中に八上城(丹波国)を撤退し有馬郡(摂津国)に逃れる。 | 『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」、『陰徳太平記』巻21「丹州八上城攻付摂州芥川城明退事」 |
永禄1年 | 1558 | 6 | 7 | - | 三好長慶が坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸・池田長正・伊丹親興・松永久秀・松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。 足利義輝・細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝・寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺・四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。 | 『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条 |
永禄1年 | 1558 | 6 | 8 | - | 足利義輝の軍勢が北白川の古城・勝軍地蔵に布陣する。対する三好長慶は、5000の軍勢を吉田山に布陣させ、残りの軍勢で如意嶽を攻撃し、足利勢を破る。 | 『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条 |
永禄1年 | 1558 | 6 | 9 | - | 三好長逸、松永久秀、松永長頼等の摂津国衆・丹波国衆が如意嶽を攻める。如意嶽に置いた足利義輝の軍勢が悉く撤退する。三好勢は神楽岡(山城国)より四条・七条・八条・九条に引き上げるところ、義輝が勝軍地蔵城(山城国)に300の兵で出張し、三好長慶勢の布陣する河原に打って出るも敗れて白川口に逃れる。奉公衆の松任修理・本郷新九郎・本郷三郎・山名又五郎・久世兵部少輔・松田二郎左衛門ら70余名が討死する。 久秀が勝軍地蔵城を攻め、六角義賢の軍勢と戦う。 | (永禄1年6月14日付細川晴元書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-518号「後鑑所収古文書」)、『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」 |
永禄6年 | 1563 | 2 | - | - | 池田長正が死去する。 | 『池田氏家譜集成』 |