和暦 |
西暦 |
月 |
日 |
年齢 |
事項 |
出典 |
- | - | - | - | - | 三好長虎が生まれる。 | - |
天文2年 | 1533 | 9 | 6 | - | 瓦林氏が越水城(摂津国)を急襲し落とす。 | 『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」 |
天文2年 | 1533 | 9 | 23 | - | 瓦林氏が籠る越水城(摂津国)を三好伊賀守、三好長虎、池田信正、伊丹氏が攻める。 | 『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」 |
天文2年 | 1533 | 9 | 24 | - | 越水城(摂津国)に籠る瓦林氏が三好伊賀守、三好長虎、池田信正、伊丹氏に降伏する。 | 『細川両家記』 |
天文18年? | 1549? | 7 | 11 | - | 三好長虎が諸口下代に雑務料のことについて公物・地子銭を一旦預かるようにと伝える。 | 天文18年カ7月11日付三好生長書状(「宮内庁書陵部所蔵土御門家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-241号) |
天文19年 | 1550 | 7 | 14 | - | 三好長逸・三好長虎・十河一存が率いる三好勢18000が一条から五条に展開する。細川晴元が足軽100で野伏せりを仕掛け鉄砲にて三好長虎与力を討つ。足利義藤は吉田山(山城国)に陣取るも三好勢と交戦せず。六角定頼勢は北白川山上に布陣するも交戦せず。九ツ時(11-13時)に三好勢は三好長慶のいる山崎(山城国)に撤退する。 義藤は東山の寺社本所領を押領するものの、三好長慶が寺社本所領を安堵しているため地下(村人)は義輝の命に応じず。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文19年 | 1550 | 11 | 19 | - | 摂津国・丹波国・河内国の国衆からなる三好長慶の軍勢40000が、東山・聖護院・岡崎・吉田・北白川・浄土寺・師子谷・田中(山城国)を悉く放火し、足利義藤の籠る中尾城(山城国)の城際に野伏せりを仕掛ける。 午刻(11-13時)に撤退した三好勢に対し、細川晴元が軍勢30を鴨川まで出す。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文19年 | 1550 | 11 | 20 | - | 三好長慶が松永長頼を先手の大将とする軍勢を山科(山城国)に遣わし、大津・松本(近江国)を放火する。その三好勢は山科(山城国)に陣取る。 | 『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条 |
天文19年 | 1550 | 11 | 21 | - | 足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元は坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文19年 | 1550 | 11 | 24 | - | 三好長慶が諸国から動員した軍勢を解散する。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 | 1551 | 2 | 27 | - | 三好長慶勢、伊勢貞孝が大津(近江国)を放火する。その後、三好・伊勢勢は志賀(近江国)より京都に帰陣する。三好・伊勢勢の撤退を受け、六角義賢が追撃の軍勢を遣わす。鹿ヶ谷にて六角勢と三好長虎が戦う。六角勢が北白川(山城国)に出没し放火する。 | 『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条 |
天文20年 | 1551 | 3 | 14 | - | 三好長慶が伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。 宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。 | 『言継卿記』同年月14・15日条 |
天文20年 | 1551 | 3 | 15 | - | 香西元成・柳本・宇津・三好政勝と三好長虎率いる軍勢20000が戦い、長虎が勝利する。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 | 1551 | 3 | 16 | - | 三好長慶が見舞いに訪れた使者と面会し無事を伝える。 三好長虎率いる軍勢20000が3月14日に香西元成・三好政勝らが陣取った西賀茂・正伝寺(山城国)を放火する。その後、長虎の軍勢は東に向かう。 | 『言継卿記』同年月日条 |
永禄4年 | 1561 | 3 | 18 | - | 十河一存が死去する。 | - |
永禄4年 | 1561 | 3 | 30 | - | 未刻(13-15時)、足利義輝が三好義興邸を訪れる。安威藤備、安東泰職、石谷光政、小林藤宗、進士藤延が義輝騎乗の馬を曳く。寺町通昭・和久是徳が進物奉行を、三好長逸が惣奉行をつとめる。
義輝には、義興が太刀1腰・鎧1領・弓・征矢・馬1疋を、細川氏綱・三好長慶・松永久秀・長逸・三好宗渭・三好長虎・三好帯刀左衛門尉、池田勝正、多羅尾綱知がそれぞれ太刀1腰を進上する。 | 『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』(『群書類従』)、三好義興等進献物注文(『蜷川家文書』3-747号) |
永禄5年 | 1562 | 5 | 24 | - | 三好義興、安宅冬康、松永久秀、三好長逸、三好長虎、三好盛政、三好政勝率いる軍勢8000が教興寺(河内国)に出陣する。 | 『足利季世記』巻6「教興寺合戦之事」 |
永禄7年 | 1564 | 7 | 24 | - | 三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。 | 『足利季世記』巻6「冬康生害之事」 |
永禄10年 | 1567 | 10 | 20 | - | 黒山(山城国)に攻め寄せた三淵弾正、香西、宇治田原の足利勢に対し、三好長虎は三如来堂に布陣していたが、夜の内に普賢寺谷まで移った後、黒山の公方勢を攻め100余人を討ち取る。 | 『多聞院日記』同年月23日条 |
- | - | - | - | - | 三好長虎が死去する。 | - |