人 物 史

三好長虎 みよし ながとら
生 没 年?-?
出 身-幼 名-
別 称弓介、久介、生長
法 名-
戒 名-
三好長逸-
兄 弟 姉 妹三好長虎
配 偶 者-
-
官 位兵庫助
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
三好長虎 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
-----三好長虎が生まれる。-
天文2年153396-瓦林氏が越水城(摂津国)を急襲し落とす。『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」
天文2年1533923-瓦林氏が籠る越水城(摂津国)を三好伊賀守、三好長虎、池田信正、伊丹氏が攻める。『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」
天文2年1533924-越水城(摂津国)に籠る瓦林氏が三好伊賀守、三好長虎、池田信正、伊丹氏に降伏する。『細川両家記』
天文18年?1549?711-三好長虎が諸口下代に雑務料のことについて公物・地子銭を一旦預かるようにと伝える。天文18年カ7月11日付三好生長書状(「宮内庁書陵部所蔵土御門家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-241号)
天文19年1550714-三好長逸三好長虎十河一存が率いる三好勢18000が一条から五条に展開する。細川晴元が足軽100で野伏せりを仕掛け鉄砲にて三好長虎与力を討つ。足利義藤は吉田山(山城国)に陣取るも三好勢と交戦せず。六角定頼勢は北白川山上に布陣するも交戦せず。九ツ時(11-13時)に三好勢は三好長慶のいる山崎(山城国)に撤退する。
義藤は東山の寺社本所領を押領するものの、三好長慶が寺社本所領を安堵しているため地下(村人)は義輝の命に応じず。
『言継卿記』同年月日条
天文19年15501119-摂津国・丹波国・河内国の国衆からなる三好長慶の軍勢40000が、東山・聖護院・岡崎・吉田・北白川・浄土寺・師子谷・田中(山城国)を悉く放火し、足利義藤の籠る中尾城(山城国)の城際に野伏せりを仕掛ける。
午刻(11-13時)に撤退した三好勢に対し、細川晴元が軍勢30を鴨川まで出す。
『言継卿記』同年月日条
天文19年15501120-三好長慶松永長頼を先手の大将とする軍勢を山科(山城国)に遣わし、大津・松本(近江国)を放火する。その三好勢は山科(山城国)に陣取る。『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条
天文19年15501121-足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。『言継卿記』同年月日条
天文19年15501124-三好長慶が諸国から動員した軍勢を解散する。『言継卿記』同年月日条
天文20年1551227-三好長慶勢、伊勢貞孝大津(近江国)を放火する。その後、三好・伊勢勢は志賀(近江国)より京都に帰陣する。三好・伊勢勢の撤退を受け、六角義賢が追撃の軍勢を遣わす。鹿ヶ谷にて六角勢と三好長虎が戦う。六角勢が北白川(山城国)に出没し放火する。『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条
天文20年1551314-三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
『言継卿記』同年月14・15日条
天文20年1551315-香西元成・柳本・宇津・三好政勝三好長虎率いる軍勢20000が戦い、長虎が勝利する。『言継卿記』同年月日条
天文20年1551316-三好長慶が見舞いに訪れた使者と面会し無事を伝える。
三好長虎率いる軍勢20000が3月14日に香西元成三好政勝らが陣取った西賀茂・正伝寺(山城国)を放火する。その後、長虎の軍勢は東に向かう。
『言継卿記』同年月日条
永禄4年1561318-十河一存が死去する。-
永禄4年1561330-未刻(13-15時)、足利義輝三好義興邸を訪れる。安威藤備安東泰職石谷光政小林藤宗進士藤延が義輝騎乗の馬を曳く。寺町通昭和久是徳が進物奉行を、三好長逸が惣奉行をつとめる。 義輝には、義興が太刀1腰・鎧1領・弓・征矢・馬1疋を、細川氏綱三好長慶松永久秀・長逸・三好宗渭三好長虎・三好帯刀左衛門尉、池田勝正、多羅尾綱知がそれぞれ太刀1腰を進上する。『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』(『群書類従』)、三好義興等進献物注文(『蜷川家文書』3-747号)
永禄5年1562524-三好義興安宅冬康松永久秀三好長逸三好長虎、三好盛政、三好政勝率いる軍勢8000が教興寺(河内国)に出陣する。『足利季世記』巻6「教興寺合戦之事」
永禄7年1564724-三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。『足利季世記』巻6「冬康生害之事」
永禄10年15671020-黒山(山城国)に攻め寄せた三淵弾正、香西、宇治田原の足利勢に対し、三好長虎は三如来堂に布陣していたが、夜の内に普賢寺谷まで移った後、黒山の公方勢を攻め100余人を討ち取る。『多聞院日記』同年月23日条
-----三好長虎が死去する。-
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