人 物 史

安宅冬康 あたぎ ふゆやす
生 没 年享禄1年(1528)-永禄7年(1564)5/9
出 身-幼 名千々世
別 称神太郎、鴨冬、一舟軒
法 名宗繁
戒 名-
三好元長
安宅治興[養父]
-
兄 弟 姉 妹三好長慶三好之虎安宅冬康十河一存、野口冬長
配 偶 者-
-
官 位摂津守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ安宅冬康の関連文化財
安宅冬康 年表
享禄1年? 1528年 -月-日 1歳
安宅冬康が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 1歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄5年 1532年 6月20日 5歳
細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、父・三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条

天文1年 1532年 7月29日 5歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文15年 1546年 9月5日 19歳
本願寺証如が中島(摂津国)に在陣中の三好長慶安宅神太郎(冬康)、十河孫六郎、三好政長に音信として3種3荷を贈る。使者は芝田宗九郎。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 10月21日 19歳
三好長慶細川藤賢の拠る中島(摂津国)に攻め込む。
出典:『私心記』同年月日条

天文16年 1547年 7月21日 20歳
舎利寺の合戦にて、三好之虎安宅冬康・松浦肥前守・畠山上総介・遊佐越中守と畠山政国・細川四郎・遊佐長教が戦い三好勢他が勝利する。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」

天文16年 1547年 7月24日 20歳
三好之虎安宅冬康、畠山上総介がに入り河内国攻めの評定を開く。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」

天文16年 1547年 8月11日 20歳
三好長慶三好之虎安宅冬康が河内国に攻め入り若林に陣取る。畠山政国の籠る高屋城(河内国)から出撃してきた畠山家足軽と三好長慶が戦う。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」

天文17年 1548年 4月24日 21歳
細川晴元と畠山政国が和睦する。晴元勢(三好長慶三好之虎安宅冬康等)が、若林(河内国)の陣所を払いへ移る。
出典:『足利季世記』巻4「細川玄蕃頭討死ノ事」

天文17年 1548年 5月2日 21歳
三好長慶越水城(摂津国)に帰陣する。
出典:『足利季世記』巻4「細川玄蕃頭討死ノ事」

天文18年 1549年 6月11日 22歳
早朝、三好宗三が榎並城(河内国)を出て江口に陣取る。これを受け三好長慶は、安宅冬康十河一存を別府川に布陣させ三宅城(摂津国)との連絡を絶つ。
出典:『足利季世記』巻4「宗三出張ノ事」

天文20年 1551年 3月14日 24歳
三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月14・15日条

天文20年 1551年 9月-日 24歳
安宅冬康東寺・同境内に軍勢の乱暴狼藉、陣取・寄宿、竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、放火を禁じる禁制を発給する。
出典:天文20年9月日付安宅鴨冬禁制(東寺百合文書WEB「東寺百合文書」ヤ函193)

天文21年 1552年 8月8日 25歳
安宅冬康に上陸したと噂される。
出典:『天文日記』同年月日条

天文23年 1554年 5月19日 27歳
本願寺証如に到着した安宅冬康に音信として5種5荷を、菅若狭に3種3荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文23年 1554年 11月2日 27歳
明石(播磨国)にて細川晴元衆の人見・香西と交戦中の赤松義祐へ援軍として安宅冬康篠原長房が明石に陣取る。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文23年 1554年 11月11日 27歳
三好長慶が明石(播磨国)に着陣する。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文23年 1554年 -月-日 27歳
赤松義祐安宅冬康の支援を受け、明石城(播磨国)を攻める。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 28歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 31歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 9月18日 31歳
にて三好長慶三好之虎安宅冬康十河一存の4兄弟が集まる。
出典:『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄1年 1558年 12月22日 31歳
三好之虎安宅冬康から尼崎(摂津国)に入る。
出典:『足利季世記』巻5「高政高屋城ヲ出ル事」

永禄3年 1560年 4月8日 33歳
洲本(淡路国)にて、不和となっていた三好長慶三好之虎が会見する。之虎は出家し物外軒実休と号す。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 5月16日 33歳
三好長慶畠山高政が断交する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永禄4年 1561年 3月18日 34歳
弟・十河一存が死去する。
出典:-

永禄4年 1561年 -月-日 34歳
畠山高政根来寺衆・紀伊国衆が岸和田(和泉国)に出陣し、安見宗房遊佐信教もそれに応じるとの報をうけ、高屋城(河内国)に在番していた三好実休が大将として安宅冬康三好康長三好政勝・三好盛政・吉成勘助・篠原長房の軍勢7000を率い畠山勢と対陣する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄5年 1562年 3月5日 35歳
久米田(河内国)にて畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 3月6日 35歳
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 5月24日 35歳
三好義興安宅冬康松永久秀三好長逸三好長虎、三好盛政、三好政勝率いる軍勢8000が教興寺(河内国)に出陣する。
出典:『足利季世記』巻6「教興寺合戦之事」

永禄6年 1563年 8月25日 36歳
三好義興が黄疽という病により芥川山城(摂津国)にて死去する。義興の死により三好義継三好長慶の後継となる。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄7年 1564年 5月9日 37歳
三好長慶飯盛山城(河内国)にて弟・安宅冬康を呼び出し、冬康を自害させる。
出典:『言継卿記』永禄同年月10日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

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