人 物 史

横田村詮 よこた むらあき
生 没 年天文21年?(1552?)-慶長8年(1603)11/14
出 身-幼 名-
別 称宗昭
法 名-
戒 名了性院殿法顔宗栖大居士
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兄 弟 姉 妹横田村詮
配 偶 者中村一氏の妹
中村主馬助
官 位内膳正
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
横田村詮 年表
天文21年? 1552?年 -月-日 1歳
横田村詮が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 4歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 7歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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元亀1年 1570年 4月23日 19歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
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天正1年 1573年 7月28日 22歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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文禄1年 1592年 12月8日 41歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
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慶長1年 1596年 10月27日 45歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
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慶長3年 1598年 8月18日 47歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月25日 49歳
徳川家康駿府城(駿河国)二ノ丸にて城主・中村一氏の名代・横田村詮の饗応を受ける。その後、輿に乗って訪れた一氏と対面し、一氏を労わる。夜、清見寺(駿河国)に宿泊する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月17日 49歳
中村一氏が死去する。
出典:-

慶長5年 1600年 9月15日 49歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長8年 1603年 2月12日 52歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 11月14日 52歳
中村一忠が家老の横田村詮を殺害する。
出典:『当代記』巻3同年12月上旬条

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