人 物 史

岩瀬氏与 いわせ うじもろ
生 没 年永禄12年(1569)-慶長18年(1613)3/3
出 身-幼 名-
別 称清助、吉左衛門
法 名宗見
戒 名-
岩瀬氏則山本清七郎の娘
兄 弟 姉 妹岩瀬氏与
配 偶 者松平重勝の娘
岩瀬氏次、山崎真助、岩瀬氏忠、黒川盛次、娘(成瀬内匠の妻)、娘(久保勝房の妻)
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第6輯 刊本
関 連 デ ー タ-
岩瀬氏与 年表
永禄12年 1569年 -月-日 1歳
岩瀬氏与が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第963「岩瀬氏与」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第963「岩瀬氏与」の項

永禄12年 1569年 -月-日 1歳
子・氏与が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第963「岩瀬氏与」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第963「岩瀬氏与」の項

元亀1年 1570年 4月23日 2歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 5歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正16年 1588年 6月3日 20歳
父・氏則が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第963「岩瀬氏則」の項

天正18年 1590年 -月-日 22歳
徳川家康岩瀬氏与に上総国山辺郡・下総国印旗郡内で1500石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第963「岩瀬氏与」の項

文禄1年 1592年 12月8日 24歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 28歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 30歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月1日 32歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重[大久保忠隣勢]、山寺信光、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」、同398「辻久吉」の項

慶長5年 1600年 9月2日 32歳
徳川家康が藤沢(相模国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月3日 32歳
徳川家康小田原城(相模国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月4日 32歳
徳川家康が三島(伊豆国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月5日 32歳
徳川家康が清見寺(駿河国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月6日 32歳
徳川家康が島田(遠江国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月7日 32歳
徳川家康が中泉(遠江国)に宿泊する。
出典:(慶長5年)9月7日付徳川家康書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号73)、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月7日 32歳
徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重(大久保忠隣勢)、木内蕃正[本多正信勢]、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」の項、同964「岩間正時」の項、同巻第964「木内蕃正」の項、同1043「神尾守世」の項

慶長5年 1600年 9月8日 32歳
徳川家康が白須賀(遠江国)に宿泊する。加賀国、能登国、越中国の視察に赴いていた三枝守英が家康のもとに戻り、前田利長が家康方として二心が無い旨を報告する。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第1152「三枝守英」の項

慶長5年 1600年 9月9日 32歳
徳川家康岡崎城(三河国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月10日 32歳
徳川家康が熱田(尾張国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月11日 32歳
徳川家康清須城(尾張国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月12日 32歳
徳川家康清須城(尾張国)に逗留する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月13日 32歳
徳川家康清須城(尾張国)より岐阜城(美濃国)に移る。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 9月15日 32歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長8年 1603年 2月12日 35歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 37歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長16年 1611年 -月-日 43歳
岩瀬氏与徳川秀忠に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第963「岩瀬氏与」の項

慶長18年 1613年 3月3日 45歳
岩瀬氏与が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻963「岩瀬氏与」の項

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