人 物 史

大谷吉継 おおたに よしつぐ
生 没 年永禄8年(1565)-慶長5年(1600)9/15
出 身近江国幼 名桂松、慶松
別 称紀之介
法 名-
戒 名渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門
大谷吉房東殿
兄 弟 姉 妹大谷吉継
配 偶 者-
大谷吉治、木下頼勝、大谷泰重、竹林院(真田信繁の妻)
官 位刑部少輔
役 職-
城 郭敦賀城(越前国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ大谷吉継の関連文化財
大谷吉継 年表
永禄8年 1565年 -月-日 1歳
大谷吉継が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 6歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 9歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正11年 1583年 4月24日 19歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正12年 1584年 4月9日 20歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正13年 1585年 9月14日 21歳
羽柴秀吉が有馬(摂津国)に湯治のため向かう途中、天満本願寺に立ち寄る。石田三成増田長盛大谷吉継千抛筅斎施薬院全宗今井宗久、今井宗薫等が随従する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 2月21日 22歳
大谷吉継の悪瘡治癒のため1000人の血が必要とのことから「千人切」として大坂の町人で人夫風情の者をを討ち殺すとの風聞が出る。これを聞いた羽柴秀吉は事実無根とし町奉行衆の任を解く。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正16年 1588年 4月14日 24歳
後陽成天皇が聚楽第(山城国)に行幸する。秀吉の前駈(右列)に石田三成大谷吉継片桐且元が、前駈(左列)に増田長盛加藤嘉明が供をする。秀吉に続き、織田信包織田長益前田利家蒲生氏郷長宗我部元親蜂屋頼隆細川忠興が、鳳輦についで織田信雄徳川家康豊臣秀次豊臣秀長近衛信輔烏丸光宣持明院基孝東坊城盛長広橋兼勝が、近衛大将の左として鷹司信房が供奉する。
出典:『多聞院日記』同年5月4日条、『豊鑑』巻3

天正17年 1589年 11月-日 25歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。大谷吉継は軍勢570で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

天正18年 1590年 6月-日 26歳
佐竹義宣、宇都宮国綱が忍城(武蔵国)攻めに加わる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

天正19年 1591年 3月13日 27歳
櫛引清長が苫辺地城(陸奥国)を攻める。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 6月14日 27歳
九戸政実成敗につき、蒲生氏郷勢が二本松(陸奥国)に到着する。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 7月19日 27歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英鈴木信光柳沢信俊[大久保忠世勢]、折井次忠[大久保忠世勢]、山高信直[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、山寺信光[大久保忠世勢]、小尾祐光小尾光重津金胤久跡部久清
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久清」の項、同201「中島盛直」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正19年 1591年 8月18日 27歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同173「津金胤久」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 27歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 27歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

文禄1年 1592年 12月8日 28歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 2月18日 29歳
豊臣秀吉が、明・朝鮮軍に動きがあった場合、対応できる軍勢がいなければ、宇喜多秀家を大将とし、前野長康、加藤光泰石田三成大谷吉継を付し対応するように命じる。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状写(『浅野家文書』262号)

文禄2年 1593年 3月10日 29歳
豊臣秀吉が牧使城攻めの軍勢を編成する。前田利家(軍勢7000)、蒲生氏郷(軍勢1500)、最上義光(軍勢300)、長谷川秀一(軍勢3000)、細川忠興(軍勢2000)、木村重茲(軍勢2000)、大谷吉継上杉景勝(軍勢5000)、蜂須賀家政(軍勢5000)、福島正則(軍勢3000)、戸田勝隆(軍勢2500)、中川秀成(軍勢2000)、小野木重次(軍勢600)、牧村政吉(軍勢400)、岡本重政(軍勢300)、糟屋武則(軍勢120)、高田治忠(軍勢180)、太田一吉(軍勢80)、片桐貞隆(軍勢120)、古田重勝(軍勢120)、新庄直定(軍勢180)、秋田実季(軍勢134)、本堂忠親(軍勢25)、大崎左衛門尉(軍勢10)、由利五人衆(軍勢88)の総勢37100。
出典:文禄3年3月10日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』263号)

文禄2年 1593年 閏9月8日 29歳
石田三成増田長盛大谷吉継が朝鮮から名護屋城(肥前国)に到着する。
出典:『駒井日記』同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 32歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 9月24日 33歳
早朝、大谷吉継邸に豊臣秀吉、象使、徳川家康富田一白織田有楽斎西笑承兌が訪れる。吉継は病のため、吉継の子・吉治が出迎える。吉継は数寄屋にて茶を振る舞う。ついで広間にて太刀、金鞍皆具、腰物、火緞子小袖20、銀子100枚、綿子100把を吉継が秀吉に進上する。午刻(11-13時)、御膳。本印坊と利元、秀吉と宗具の碁が行われる。晩におよび小漬の後、皆帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 8月18日 34歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長3年 1598年 12月19日 34歳
松梅院禅昌が大谷吉継のもとへ見舞いに赴く。
出典:『北野社家日記』同年月日条

慶長5年 1600年 8月1日 36歳
石田三成等が伏見城(山城国)が攻め落とす。鳥居元忠松平近正松平家忠内藤家長、岩間兵庫、上林竹庵が討死する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

慶長5年 1600年 8月16日 36歳
石田三成が居城・佐和山城(近江国)を出陣し、大垣城(美濃国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 8月23日 36歳
福島正則池田輝政細川忠興加藤嘉明浅野幸長山内一豊井伊直政本多忠勝等が織田秀信の籠る岐阜城(美濃国)を攻め、同城を落とす。
攻衆:井伊直政[惣奉行][瑞龍寺出丸]、本多忠勝[総奉行][瑞龍寺出丸]、福島正則[大手町口]、加藤嘉明[大手町口]、細川忠興[浄土口]、山内一豊[浄土口]、浅野幸長[瑞龍寺出丸]、池田輝政[長良川の城搦手](一番乗)、細川忠隆[細川忠興勢]、細川興秋[細川忠興勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]。
織田秀信勢:織田秀信[大将]。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)、『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠隆」、同105「細川興秋」の項、同263「池田利隆」の項、同267「池田長吉」の項、同773「加藤嘉明」の項

慶長5年 1600年 -月-日 36歳
大谷吉継が高宮(近江国)に滞在中の小早川秀秋平塚為広、戸田勝成を遣わすが、秀秋は病を理由に対面を拒む。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月14日 36歳
宇喜多秀家小西行長長束正家石田三成大谷吉継安国寺恵瓊の連名で、小早川秀秋に対し、豊臣秀頼が15歳になるまで関白職と天下の進退を秀秋に委ねること、播磨国を給付すること、秀秋家老の稲葉佐渡守・平岡頼勝に近江国内で10万石と金子300枚を給付することを記した誓詞を発給する。
深夜、関ヶ原に陣取る。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 36歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.