歴史の目的をめぐって
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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
人 物 史
藤堂高刑
とうどう たかのり
生 没 年
天正5年(1577)-慶長20年(1615)5/6
出 身
近江国
幼 名
-
別 称
鈴木高刑、仁右衛門
法 名
-
戒 名
-
父
鈴木弥右衛門
母
藤堂虎高の娘
兄 弟 姉 妹
藤堂高刑
配 偶 者
織田信清の娘
子
-
官 位
-
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
藤堂高刑の関連文化財
藤堂高刑 年表
天正5年 1577年 -月-日 1歳
藤堂高刑
が近江国にて生まれる。
出典:-
文禄1年 1592年 12月8日 16歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-
慶長1年 1596年 10月27日 20歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-
慶長2年 1597年 7月-日 21歳
朝鮮国攻めにつき、諸将の攻め口を定める。船手は熊谷直盛・早川長政を奉行に、
毛利秀元
、
九鬼守隆
、
寺沢広高
、
長宗我部元親
、池田秀氏、小川祐滋、
中川秀成
、
伊東祐兵
、
立花宗茂
、
脇坂安治
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
宍戸元続
、
安国寺恵瓊
を宛て、陸路北方は
太田一吉
を奉行に
加藤清正
を宛て、陸路中方は
竹中重利
を奉行に、
加藤嘉明
、
蜂須賀家政
、
生駒親正
、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房を宛て、陸路南方は
毛利高政
を奉行に、
宇喜多秀家
、
小西行長
、
藤堂高虎
、
島津義弘
を宛てる。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 8月12日 21歳
宇喜多秀家
、
太田一吉
、
藤堂高虎
、
脇坂安治
、
小西行長
、
竹中重利
、
加藤嘉明
、
島津義弘
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
蜂須賀家政
、
毛利高政
、
生駒親正
、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房、
伊東祐兵
が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を包囲する。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、
宇喜多詮家
[宇喜多秀家勢]、
戸川達安
[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 8月13日 21歳
宇喜多秀家
、
太田一吉
、
藤堂高虎
、
脇坂安治
、
小西行長
、
竹中重利
、
加藤嘉明
、
島津義弘
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
蜂須賀家政
、
毛利高政
、
生駒親正
、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房、
伊東祐兵
が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、
宇喜多詮家
[宇喜多秀家勢]、
戸川達安
[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 8月14日 21歳
宇喜多秀家
、
太田一吉
、
藤堂高虎
、
脇坂安治
、
小西行長
、
竹中重利
、
加藤嘉明
、
島津義弘
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
蜂須賀家政
、
毛利高政
、
生駒親正
、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房、
伊東祐兵
が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻める。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、
宇喜多詮家
[宇喜多秀家勢]、
戸川達安
[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『朝鮮記 乾』
慶長2年 1597年 8月15日 21歳
宇喜多秀家
、
太田一吉
、
藤堂高虎
、
脇坂安治
、
小西行長
、
竹中重利
、
加藤嘉明
、
島津義弘
、来島通総、
菅三郎兵衛
、菅右衛門八郎、
蜂須賀家政
、
毛利高政
、
生駒親正
、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、
島津豊久
、
秋月種長
、
高橋元種
、相良頼房、
伊東祐兵
が明軍・楊元、朝鮮軍・李福男が籠る南原城を攻め、この城を落とす。
日本勢:宇喜多秀家、太田一吉、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、竹中重利、加藤嘉明、島津義弘、来島通総、菅三郎兵衛、菅右衛門八郎、蜂須賀家政、毛利高政、生駒親正、生駒一正、毛利吉成、毛利勝永、島津豊久秋月種長、高橋元種、相良頼房、伊東祐兵、
宇喜多詮家
[宇喜多秀家勢]、
戸川達安
[宇喜多秀家勢]、藤堂忠光[藤堂高虎勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、藤堂良勝[藤堂高虎勢]。
出典:『相国考記』同年9月16日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)、『朝鮮記 乾』
慶長3年 1598年 8月18日 22歳
豊臣秀吉
が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条
慶長5年 1600年 9月15日 24歳
関ヶ原の合戦で
徳川家康
と
石田三成
が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。
黒田長政
・
加藤嘉明
・
細川忠興
・
金森長近
が
石田三成
と、
福島正則
・
松平忠吉
・
井伊直政
が
宇喜多秀家
・
小西行長
と、
藤堂高虎
が
大谷吉継
と戦い、
池田輝政
・
浅野幸長
が南宮山の
毛利秀元
・
吉川広家
・
安国寺恵瓊
・
長束正家
・
長宗我部盛親
と対峙する。戦中、
小早川秀秋
が寝返り、
大谷吉継
勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。
島津義弘
・
島津豊久
は伊勢路からの撤退を企て、
井伊直政
の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、
酒井重忠
[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、
松平康安
[徳川家康勢]、
小栗忠政
[徳川家康勢]、
花房職秀
[徳川家康勢]、
油川信貞
[徳川家康勢]、
三枝守英
[徳川家康勢]、
岩瀬氏与
[徳川家康勢・使番]、
鈴木重次
[徳川家康勢]、
鈴木信光
[徳川家康勢 御使番]、
森可澄
[徳川家康勢]、
加藤正次
[徳川家康勢]、
酒依昌吉
[徳川家康勢]、
小倉吉正
[水野重央勢]、
黒田一成
[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、
藤堂高刑
[藤堂高虎勢]、
池田利隆
[池田輝政勢]、
池田長吉
[池田輝政勢]、
伊木忠次
[池田輝政勢]、
森可政
[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、
川尻秀長
(戦死)、
島清興
[石田三成勢](戦死)、
大谷吉治
[大谷吉継勢]、
湯浅隆貞
[大谷吉継勢](戦死)、
福留政親
[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『
菅氏世譜
』
慶長8年 1603年 2月12日 27歳
朝廷にて
徳川家康
の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政
が右近衛少将に、
板倉勝重
が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条
慶長20年 1615年 5月5日 39歳
巳刻(9-11時)、
徳川家康
が
二条城
(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:
松平定勝
、
青木信安
。
家康が淀(山城国)にて
細川忠興
に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠
が
伏見城
(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。
本多正信
、
藤堂高虎
、
土井利勝
、
安藤重信
がその協議に参加する。
小笠原秀政
が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝
が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎
勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項
慶長20年 1615年 5月6日 39歳
八尾(河内国)にて
藤堂高虎
と
長宗我部盛親
が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・
藤堂高刑
[藤堂高虎勢](戦死)・
桑名吉成
[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて
井伊直孝
・
木村重成
・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、
内藤政勝
(戦死)。
岩田にて
榊原康勝
と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・
松平忠明
・
伊達政宗
の徳川勢と
後藤基次
・
薄田兼相
・
渡辺糺
の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、
徳川家康
・
徳川秀忠
は枚岡(河内国)に陣取る。7日の
大坂城
(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『
福富半右衛門親政法名浄安覚書
』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項
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