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総年表


天文9年 1540年 9月23日
尼子詮久が青山三塚山に陣替えする。毛利元就は尼子本陣の風越山を急襲する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月26日
尼子詮久が坂に陣取っていた杉元相・小早川興景を攻める。毛利元就は坂に赴き、尼子勢と闘う。尼子方の湯原宗綱が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 10月11日
尼子詮久が郷内にいつものごとく軍勢を遣わしたところ、毛利元就が出撃し、尼子勢を青山構まで追い払う。尼子方の三沢為幸が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 12月3日
陶隆房尼子詮久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援すべく、軍勢10000をもって山田中山に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月11日
宮崎・長尾(安芸国)にて尼子詮久方の南条・小鴨・吉川・高橋と毛利元就・宍戸勢が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 11月2日
伊勢貞孝が下間光頼を御料所 加賀国森嶋・6ヶ村(長嶋、野田、高畠、宮武、藤六、小豆澤)・徳久の代官職に補任し、これより3ヶ年公用を京着するように命じる。
出典:天文9年11月2日付伊勢貞孝代官職補任状案(『蜷川家文書』3巻-546号)

天文9年 1540年 11月26日
尼子晴久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援するため、陶隆房を大将とする大内勢が山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月5日
正四位下に叙される。
出典:『公卿補任』天文15年

天文9年 1540年 12月10日
長谷寺の補陀落渡海の十穀に上人号を賜う。
出典:『御湯殿上の日記』同年月日条

天文9年 1540年 12月27日
〓井甚左衛門尉が買得した所々の地を三好範長(長慶)が安堵する。
出典:天文9年12月27日付三好長慶書下(『戦国遺文』三好氏編第1巻-141号「〓井文書」)

天文9年 1540年 -月-日
子・公遠が生まれる。
出典:『系図纂要』「四辻」

天文9年 1540年 -月-日
春、世上大飢饉。餓死者が多く、上京下京にて春夏中、毎日60人ばかり死者を捨てるという。誓願寺において非人施行が行われる。
出典:『厳助往年記』天文9年条

天文10年 1541年 -月-日
平島(阿波国)にて足利義助が生まれる。
出典:『阿州将裔記』「足利義冬より之系図」

天文10年 1541年 -月-日
松平景忠が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第27「松平景忠」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第27「松平景忠」の項

天文10年 1541年 -月-日
福原元俊が生まれる。
出典:-

天文10年 1541年 -月-日
穴山信君が生まれる。
出典:-

天文10年 1541年 -月-日
細野藤敦が生まれる。
出典:-

天文10年? 1541?年 -月-日
伊集院忠棟が生まれる。
出典:-

天文10年 1541年 1月3日
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)を攻める。相合口にて尼子勢と毛利元就が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文10年 1541年 1月4日
佳例として本願寺証如下間頼慶の宿所を訪れる。朝飯として汁4、菜12、菓子9種にてもてなす。、順興寺実従、実淳、福一が相伴する。その後、雑煮あり。
証如が帰宅した後、扇2本、杉原を証如に贈る。
頼慶が風呂を焼く。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 1月8日
足利義晴への門跡の参賀あり。巌助にのみ対面する。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文10年 1541年 1月8日
木沢長政本願寺証如に初陽の祝慶として書状を送る。使者は小野但馬。但馬が到着したのは夕方であったためこの日は証如と対面せず。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 1月9日
8日に到着した木沢長政の使者 小野但馬が本願寺証如と対面する。1献にてもてなす。
山中蔵人より年首の祝儀として使者が訪れる。綱所にて使者に盃を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 1月11日
陶隆房が天神山に陣替えする。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月12日
左大臣に就任する。
出典:『系図纂要』「鷹司家」

天文10年 1541年 1月13日
吉田郡山城(安芸国)に籠る毛利元就が、城攻めのため宮崎・長尾(安芸国)に陣を張る尼子詮久を攻める。元就の攻撃に、陶隆房も呼応し、詮久は敗れて出雲国に撤退する。この戦いで、隆房被官の深野興房・宮川興広が、尼子方は尼子久幸・三沢為幸・高尾豊前守が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文10年 1541年 2月12日
小山田信有が死去する。
出典:-

天文10年 1541年 3月10日
本願寺証如が、山科本願寺跡地の地子銭を、醍醐寺三宝院に未納しているため路地封鎖行っていることについて、幕府より停止するようにとの命令が出され、醍醐寺よりも了承の返答があったことから、幕府に御礼として馬代1000疋を進上する。地子銭を払わなくてもよくなった理由は、山科本願寺を再興する考えがないことによる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 3月19日
権大納言に任官。
出典:『系図纂要』「二条家」

天文10年 1541年 3月27日
権中納言となる。
出典:『系図纂要』「万里小路」

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