人 物 史

伊集院忠棟 いじゅういん ただむね
生 没 年天文10年(1541)-慶長4年(1599)3/9
出 身-幼 名-
別 称源太、忠金、幸侃
法 名-
戒 名-
伊集院忠倉-
兄 弟 姉 妹伊集院忠棟、伊集院春成
配 偶 者島津久定の娘
伊集院忠真、伊集院小伝次、肝付兼三、千次
官 位右衛門大夫
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる伊集院忠棟の呼称
伊集院忠棟 年表
天文10年? 1541?年 -月-日 1歳
伊集院忠棟が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 15歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 18歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 30歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 6月23日 31歳
島津貴久が薩摩国にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

天正1年 1573年 7月28日 33歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正6年 1578年 11月12日 38歳
耳川にて田北鎮周、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、角隈石宗等が率いる大友勢と島津義久が戦い、義久が勝利する。大友方は鎮周、惟教、惟真、鎮忠、石宗、臼杵統景、蒲池鑑盛、蒲池統安が戦死する。この戦いに、島津勢として参加する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項・巻第109「島津以久」の項、『豊薩軍記』巻2「高城河原合戦並大友諸将討死事」

天正13年 1585年 1月20日 45歳
上井覚兼、道正宗与伊集院忠棟の茶湯に参会する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 2月25日 45歳
道正宗与伊集院忠棟の茶湯に参会する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 5月9日 45歳
伊集院忠棟に呼ばれた島津家家臣と道正宗与が酒を飲む。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 6月7日 46歳
島津義久が豊後国攻めにつき、弟・義弘島津忠長、川上久隅、伊集院忠棟、町田久倍、平田光宗、本田親貞、伊集院久治、上原尚近、上井覚兼、白浜重政、本多正親、税所篤和、三原重隆、木脇祐充、遠矢良時、吉利久金、比志島義基を召し、談合する。談合の結果、義久、親貞、覚兼、光宗は日向口より、義弘、忠長、忠棟は肥後口より豊後国に攻め入ることが決定する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 7月13日 46歳
高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻めるため、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が太宰府観世音寺に陣取る。龍造寺政家、秋月種実高橋元種等が城を包囲する。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月14日 46歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻める。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月27日 46歳
寅刻(3-5時)、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運の籠る岩屋城(筑前国)を攻め、未刻(13-15時)に島津勢が城内の高橋勢を悉く討つ。紹運は自害する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条、『黒田家譜』巻3「孝高記」、『高橋紹運記』35「岩屋城中役所配之事」、『寛政重修諸家譜』巻第113「高橋鎮種」の項目

天正14年 1586年 7月29日 46歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が立花宗茂の籠る立花山城(筑前国)を攻めるべく、岩屋城(筑前国)を出立する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正15年 1587年 1月25日 47歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 47歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 47歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 47歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 47歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 47歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 47歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 47歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 47歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 47歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 47歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 47歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 47歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 47歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 47歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 47歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 47歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 47歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 47歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 47歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 47歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 47歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 47歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 5月25日 47歳
豊臣秀吉島津義弘に新恩地として大隅国を給付する。ただし、大隅国の内、肝属郡は伊集院忠棟に給付する。
出典:天正15年5月25日付豊臣秀吉朱印状(『島津家文書』1-378号)

天正16年 1588年 6月6日 48歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)の山里にて茶の湯を催す。津田宗及の案内にて、島津義弘伊集院幸侃細川幽斎が参会し、千宗易が茶を点てる。
出典:(天正16年)6月6日付島津義弘書状(『島津家文書』3-1493号)

文禄1年 1592年 12月8日 52歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄5年 1596年 7月10日 56歳
近衛信尹が鹿児島(薩摩国)を出航する。三船(薩摩国)まで本田正親、本田親紀、本田勝五郎、敷根頼豊、瀧左京、木脇祐充、美代主膳が護送する。浜市(大隅国)に到着する。河上慰皎が出迎え、相良吉左衛門尉の所に宿泊する。夜、伊集院幸侃島津龍伯が信尹の宿所を訪れる。
出典:『三藐院記』同年月日条

文禄5年 1596年 7月17日 56歳
伊集院幸侃が荘内(日向国)にて近衛信尹を茶事に招く。
出典:『三藐院記』同年月日条

文禄5年 1596年 7月20日 56歳
荘内(日向国)に滞在中の近衛信尹のもとに島津龍伯が訪れる。
出典:『三藐院記』同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 56歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長4年 1599年 3月9日 59歳
島津忠恒が重臣・伊集院幸侃を伏見(山城国)の屋敷に呼び寄せ殺害する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

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