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天正4年 1576年 5月8日
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月8日
村井貞勝織田信長のいる河内国に下向する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月8日
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
根来寺を経由し大坂本願寺に入城しようとした吉野飯貝の一向衆が捕らえられる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月9日
雑賀孫市の首(とされるもの)が、京都の勘解由小路室町にある御所の堀に懸けられたという。織田軍の負傷者が近江に送られたという。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月9日
勧修寺晴右、甘露寺経元、中山孝親冷泉為純村井貞勝が、織田信長本願寺顕如の戦いについて話し合う。貞勝は禁裏よりすぐに勅使を派遣するように4名に要請し、晴右が明日にでも勅使を派遣すると返答する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月9日
村井貞勝が上洛する。
勧修寺晴右、甘露寺経元、中山孝親冷泉為純と貞勝が、織田信長本願寺顕如の戦いについて話し合う。貞勝は禁裏よりすぐに勅使を派遣するように4名に要請し、晴右は明日にでも勅使を派遣すると返答する。吉田兼見より天王寺の信長のもとへ見舞いに赴きたいとの申し出を受け許す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月10日
巳刻(9-11時)、織田信長が大和国一国一円の支配を筒井順慶に任せることを明智光秀万見重元を介して同人に伝える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月11日
勧修寺晴豊、甘露寺経元が、本願寺顕如と戦闘中の織田信長のもとにが勅使として赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月11日
筒井郷(大和国)に筒井順慶の家臣である浄田、松田が使者として入部する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月12日
吉田兼見が天王寺に在陣中の細川藤孝のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月13日
吉田兼見が本願寺顕如と戦闘中の織田信長のもと(本陣)に見舞いに訪れる。兼見は信長に御帷2(越後布 白アサギ)を贈る。堀秀政が披露。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月13日
天王寺の山岡景佐の陣所にて細川藤孝が吉田兼見とともに朝食を食べる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月14日
吉田兼見が森口城(河内国)に在城中の細川藤孝のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月14日
吉田兼見がを見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月14日
英賀(播磨国)にて毛利勢と黒田孝高が戦い、孝高が勝利する。
出典:(天正5年)5月16日付織田信長朱印状(福岡市博物館所蔵『軍師官兵衛』)、『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正4年 1576年 5月15日
筒井順慶興福寺、奈良(大和国)中に触を出し原田直政一類の預かり物があれば、紙1枚といえども提出するように命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月16日
織田信長が河内国に滞在する。
大乗院尋憲が信長のもとに見舞いに訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月20日条

天正4年 1576年 5月16日
大乗院尋憲大坂本願寺攻めのため河内国に滞在中の織田信長のもとへ見舞いに訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月20日条

天正4年 1576年 5月16日
吉田兼見が村井貞勝のもとを訪れ、13日に兼見が織田信長のもとへ見舞いに訪れた時のことを貞勝に語る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月16日
山科言経北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月17日
筒井順慶大坂本願寺攻めにつき詰城を築城するにあたり奈良中に人夫ならびに家ごとに縄1把を賦課する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月18日
大乗院尋憲興福寺大乗院に帰寺する。
出典:『多聞院日記』同年月20日条

天正4年 1576年 5月19日
吉田兼見が勧修寺晴右のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月19日
吉田兼見が近衛信基のもとを訪れる。兼見は信基が所望していた『大学』の麁本の書写を信基に贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月19日
吉田兼見が村井貞勝のもとを訪れ、貞勝に鯉3を贈る。兼見と将棋を指す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月22日
織田信長に陣を移す。
出典:『言継卿記』同年5/24条

天正4年 1576年 5月22日
京都にて洪水が発生し、通路の通行ができなくなる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月23日
明智光秀が体調不良のため天王寺城(摂津国)より京都に帰陣する。曲直瀬道三の診察を受ける。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月23日
毛利家が大坂本願寺へ船手をもって兵粮を運び入れるとの風聞を聞いた織田信長安宅神五郎に、もし中国地方より兵粮を運ぶ船が来たならば関船を出して追い落とすようにと命じる。
出典:(天正4年)5月23日付織田信長朱印状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1746号、「萩原文書」))

天正4年 1576年 5月24日
明智光秀の妻が光秀の病平癒の祈祷を吉田兼見に依頼する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

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