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出典 :   


天正6年 1578年 5月26日
松平信康が切山へ楊梅を見物するため赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 5月27日
未明、織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。
安土城(近江国)の大雨被害を検分すべく、松本(近江国)より矢橋(近江国)まで船にて赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月27日
織田信長の指示により京都の羽柴秀吉邸に居所を移す。
聖護院道澄、吉田兼見が訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月28日条

天正6年 1578年 5月28日
吉田兼見が村井貞勝のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 5月29日
養父・上杉謙信の死去につき、上杉景虎春日山城(越後国)に入城した上杉景勝に備えるため御館に入る。
出典:(天正6年)5月29日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1523号)

天正6年 1578年 5月29日
養父・謙信の死去につき、上杉景虎春日山城(越後国)に入城した上杉景勝に備えるため御館に入る。
景虎は養父・謙信の死去につき見舞いの使者を送ってきた蘆名盛氏に対し、御館に移ったこと、武田勢が信濃国境まで出撃すること、蘆名家とは今後も懇意とすることを伝える。
出典:(天正6年)5月29日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1523号)

天正6年 1578年 6月3日
細川藤孝が刀田寺(播磨国)に陣取る。
出典:『綿考輯録』巻3

天正6年 1578年 6月8日
上杉景勝が、北条高広・景広父子に、武田信豊・高坂虎綱を通して武田家と和睦したこと、武田勢は景勝の指図によって動くことを伝える。
出典:(天正6年)6月8日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1528号)

天正6年 1578年 6月10日
未刻(13-15時)、織田信長が上洛する。(『兼』)
上洛するため矢橋(近江国)より松本(近江国)まで船にて赴く。(『信』)
出典:『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 6月10日
明智光秀に捕らえられていた波多野秀治が京都(山城国)を通過する。
出典:『立入左京亮入道隆佐記』

天正6年 1578年 6月11日
上杉景勝が、上杉景虎の籠る御館に攻め入り、大場・居多ヶ浜にて景勝と景虎が戦う。景虎方の上杉景信が戦死する。
出典:(天正6年)6月12日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1542号)

天正6年 1578年 6月12日
上杉景勝が、上杉景虎の籠る御館に攻め入り、直嶺にて景勝と景虎が戦う。
出典:(天正6年)6月12日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1542号)

天正6年 1578年 6月12日
吉田兼見が近衛前久のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 6月12日
武田信豊が上杉景勝武田勝頼の海津(信濃国)着陣を伝える。
出典:(天正6年)6月24日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1559・1560号)

天正6年 1578年 6月12日
吉田兼見が松井友閑のもとを訪れる。面会する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 6月12日
吉田兼見が村井貞勝のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 6月14日
織田信長が祇園会を見物する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(7)洪水の事(祇園会の事)

天正6年 1578年 6月16日
羽柴秀吉が上洛し、織田信長のもとに訪れる。信長は秀吉に神吉(播磨国)、志方(播磨国)を攻め破り、三木城(播磨国)を追い詰めるよう命じる。神吉城(播磨国)攻めの検使として大津長昌、水野九蔵、大塚又一郎、長谷川竹、矢部家定、菅屋長頼万見重元、祝弥三郎を遣わす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月20日
吉田兼見が近衛前久のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 6月21日
織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月22日
飛鳥井雅教が数ヶ月の治療にもかかわらず回復しない子・雅敦の病の平癒祈祷を吉田兼見に依頼する。兼見は雅敦を見舞う。吉田牧庵の診察を受ける。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 6月22日
酒井忠次岡崎城(三河国)に訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 6月23日
吉田兼見が飛鳥井雅敦の病気平癒の祈祷をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 6月23日
松平家忠酒井忠次のもとを訪れる。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 6月24日
上杉景勝武田勝頼に対し入魂の旨を申し入れてきたことに対し勝頼も景勝に同様の関係を望むことを斎藤朝信・新発田長敦に伝える。
出典:(天正6年)6月12日付武田信豊書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1543号)

天正6年 1578年 6月26日
滝川一益丹羽長秀明智光秀が三日月山(播磨国)に移る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月26日
羽柴秀吉荒木村重が高倉山(播磨国)の陣所を引き払い、書写山(播磨国)に移る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月26日
九鬼嘉隆が大船7艘を熊野浦に出す。大坂へと回漕中、淡輪の海上にて大船の行く手を阻むべく、雑賀・淡輪浦の小船が嘉隆の大船を襲撃するが、九鬼の大船が大鉄砲にて小船を一掃。以後、九鬼への襲撃が止む。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 6月26日
多賀社社僧が吉田兼見のもとを訪れ、社頭・廻廊等の修理につき、役人・大工の汚穢・不浄を禁じるも、なお慎重を期すべく社に奉納する鎮札の調製を依頼する。
出典:『兼見卿記』同年月27日条

天正6年 1578年 6月27日
北畠信雄が志方城(播磨国)攻めにつき、同城近くに陣取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

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