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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
人 物 史
益田照従
ますだ しょうじゅう
生 没 年
天文15年(1546)-慶長4年(1599)7/6
出 身
-
幼 名
-
別 称
少将
法 名
-
戒 名
-
父
-
母
-
兄 弟 姉 妹
-
配 偶 者
-
子
-
官 位
-
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
史料にみえる益田照従の呼称
益田照従 年表
弘治1年 1555年 10月23日 10歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-
弘治4年 1558年 2月28日 13歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-
元亀1年 1570年 4月23日 25歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-
天正1年 1573年 7月28日 28歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-
天正11年 1583年 9月15日 38歳
本願寺顕如
が、貝塚動座の礼として
羽柴秀吉
へ
下間頼廉
、寺内若狭、増田照従を遣わす。両名は
堺
に到着。頼廉は
浅野長政
への音信の添状と、
岸和田城
(和泉国)城主・
中村一氏
への添状を調える。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正11年 1583年 9月17日 38歳
貝塚動座の礼として
本願寺顕如
が
羽柴秀吉
へ遣わした
下間頼廉
、寺内若狭、
益田照従
が
大坂城
(摂津国)にて秀吉に対面する。対面時の相伴の衆は
松井友閑
、
前田利家
、
千宗易
、
津田宗及
、
荒木道薫
。頼廉は秀吉より馬を賜る。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正11年 1583年 11月20日 38歳
本願寺顕如
が
中村一氏
のもとへ
益田照従
を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正12年 1584年 4月20日 39歳
羽柴秀吉
が貝塚本願寺にいる
本願寺顕如
に鵜飼八蔵を遣わす。鵜飼は北伊勢での一向一揆蜂起につき、本願寺の関与を問い質す秀吉の書状(
下間頼廉
・
益田照従
宛)を持参する。秀吉の書状は頼廉・照従宛であったが、顕如が直札をもって北伊勢一向一揆蜂起の不関与を弁明する。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正12年 1584年 4月24日 39歳
本願寺顕如
が
羽柴秀吉
に陣中見舞いとして河野越中を遣わす。加えて秀吉より問い質された北伊勢一向一揆蜂起の件について、北伊勢坊主中に御書を遣わしよくよく言い聞かせるようにすることを伝えさせる。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 5月3日 40歳
本願寺顕如
が
羽柴秀吉
より渡辺(摂津国)に与えられた寺内屋敷地を請取るため(移転承知の旨を伝えるため)、
下間頼廉
・
円山内匠
・
益田照従
を秀吉のもとに遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正13年 1585年 6月1日 40歳
本願寺顕如
が5月27日に来寺してくれた
羽柴秀長
への礼として
益田照従
、
円山内匠
を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正14年 1586年 6月1日 41歳
天満本願寺の地築が始まる。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正14年 1586年 6月4日 41歳
天満本願寺の地築につき石を据える。
出典:『宇野主水記』同年月日条
天正14年 1586年 6月26日 41歳
天満本願寺の御影堂柱立が始まる。
出典:『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年 1586年 6月28日 41歳
天満本願寺の御影堂棟上が行われる。
出典:『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年 1586年 7月19日 41歳
天満本願寺の御影堂棟上式が行われる。
出典:『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年 1586年 8月3日 41歳
親鸞木像を天満本願寺の阿弥陀堂から御影堂に移徙する。
出典:『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正20年 1592年 2月-日 47歳
本願寺(京都六条)の釿始が執行される。
出典:『紫雲殿由縁記』
天正20年 1592年 11月18日 47歳
本願寺(京都六条)にて移徙供養が執行される。
出典:『紫雲殿由縁記』
天正20年 1592年 11月24日 47歳
報恩講の仏事の最中、
本願寺顕如
が中風により死去する。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項
文禄1年 1592年 12月8日 47歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-
文禄1年 1592年 12月10日 47歳
七条東河原にて
顕如
の葬礼が行われる。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項
文禄1年 1592年 12月25日 47歳
顕如
の遺骨が大谷本願寺の旧地に納骨される。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項
文禄2年 1593年 閏9月5日 48歳
木曽から美濃国に送られた柾板2200駄について、近江国の
豊臣秀次
領内および美濃国の蔵入地の人夫をもって朝妻(近江)まで運送するよう
益田照従
が命じられる。
出典:『駒井日記』同年月16日条
文禄2年 1593年 閏9月15日 48歳
本願寺教如
が
大坂城
(摂津国)に到着する。
施薬院全宗
、
長束正家
、山中長俊が
豊臣秀吉
の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、
織田信長
にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・
顕如
から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を
准如
に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。
出典:『駒井日記』同年月16日条
文禄2年 1593年 閏9月16日 48歳
豊臣秀吉
が本願寺の住持職について、譲状に基づき、
本願寺教如
を退け、弟・
准如
に相続させるよう命じる。
出典:『駒井日記』同年月日条・同年月17日条
文禄4年 1595年 7月8日 50歳
豊臣秀吉
が、謀叛の疑惑につき
豊臣秀次
を
高野山
清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が
伏見城
(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、
応其
が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、
前田玄以
と
田中吉政
が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条
文禄4年 1595年 7月9日 50歳
豊臣秀次
が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、
益田照従
に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」
文禄4年 1595年 7月13日 50歳
豊臣秀次
謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に
石田三成
・
前田玄以
・
増田長盛
が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した
服部一忠
は
上杉景勝
に、一柳直秀は
徳川家康
に、
船越景直
は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』
文禄4年 1595年 7月15日 50歳
豊臣秀次
が
高野山
青巌寺にて切腹する。秀次家臣・
木村重茲
が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条
慶長1年 1596年 10月27日 51歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-
慶長4年 1599年 -月-日
益田照従
が死去する。
出典:-
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