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慶長19年 1614年 10月23日
豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日
前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月24日
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月25日
未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月26日
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月26日
徳川秀忠が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月27日
一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条

慶長19年 1614年 10月27日
徳川秀忠が清水(駿河国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月28日
三宝院義演、大乗院、本願寺門跡、鉄山、松岳が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月28日
徳川秀忠が掛川(遠江国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月29日
徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月29日
徳川秀忠が吉田(三河国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月-日
南部利直徳川家康徳川秀忠父子の大坂城(摂津国)攻めに加わるべく、盛岡城(陸奥国)を発す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長19年 1614年 10月-日
大坂城(摂津国)攻めにつき、黒田長政は、徳川家康秀忠父子に江戸城(武蔵国)にて留守居をすることを自ら申し出る。
出典:『菅氏世譜

慶長19年 1614年 11月1日
八条宮智仁親王、二条昭実九条忠栄、妙法院宮、梶井宮、勧修寺宮、隨心院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
日蓮衆21ヶ寺の住持が家康と対面する。
池田忠継有馬豊氏が家康と対面する。
上京下京(山城国)が家康に銀1000両を献上する。
島津家久の使者が家康のもとに到着する。家久からは、豊臣秀頼の使者として長崎往来商人の高屋七郎兵衛が家久のもとを訪れ、秀頼黒印状・脇差(銘 正宗)を持参し、家康による大坂城(摂津国)攻めで秀頼に味方するようにとの依頼があったが、家久は関ヶ原の後、家康のおかげで本領安堵を受けているので秀頼に味方することはできないしと、脇差を返却し、使者は商人だったため殺さずに帰したことを報告する。この件は、本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月1日
細川忠興が松井興長に、徳川家康は10月11日に駿府城(駿河国)より出陣したこと、忠興にも大坂城(摂津国)攻めへの出陣の命が下ったこと、細川勢の出陣は島津忠恒毛利宗瑞の出陣を確認した後にするようにとの指示があったこと、福島正則黒田長政加藤嘉明江戸城(武蔵国)に留守居となったこと等を伝える。
出典:『綿考輯録』巻19

慶長19年 1614年 11月1日
徳川秀忠が岡崎(三河国)に到着する。
出典:『当代記』同年月2日条

慶長19年 1614年 11月2日
吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月2日
徳川秀忠名古屋(尾張国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月2日
折井次忠が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次忠」の項

慶長19年 1614年 11月3日
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日
徳川秀忠が大垣(美濃国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月4日
徳川家康二条城(山城国)南御殿に出る。近衛、一条兼遐が家康に対面する。公家衆が家康に礼をする。公家衆のうち数人が出仕しなかったことについて、本多正純板倉勝重を呼び出し立腹したことを伝える。
夜、片桐且元が大坂(摂津国)の絵図を家康に献じる。家康は正純、勝重、安藤直次成瀬正成を呼び出し、大坂の絵図を見せるとともに、中井正清に大坂近辺の絵図の作成を命じる。
家康は10月28日より大坂城(摂津国)より退城した者の口上を後藤光次に報告させる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月4日
徳川秀忠が柏原(近江国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日
大坂城(摂津国)攻めの先陣より、使番の横田尹松、佐久間政実、初鹿野信昌が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに戻り、先陣が住吉(摂津国)まで進軍したことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月5日
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月5日
先陣の藤堂高虎勢が乱暴・狼藉・放火をしたと聞き、徳川家康は立腹し、止めるよう指示する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。忠政は乱暴・狼藉を禁止する禁制を発給する。それを聞き、家康は称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月5日
徳川家康片桐且元 を召し出し、大坂城攻めの手立てを伝えるとして、本多正純を遣わす。
家康が且元家臣の日比半右衛門に服2領を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月5日
徳川秀忠が佐和山(近江国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月6日
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

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