人 物 史

斎藤利三 さいとう としみつ
生 没 年天文3年(1534)-天正10年(1582)6/18
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
斎藤利賢蜷川親順の女
兄 弟 姉 妹石谷頼辰、斎藤利三、斎藤三続、女(蜷川親長の妻)、女(長宗我部元親の妻)
配 偶 者斎藤道三の女、安(稲葉良通の女)
斎藤利康、斎藤利宗、斎藤三存、斎藤七兵衛、女(柴田勝全の妻)、女(柴田勝全の妻)、福(稲葉重通の養女、稲葉正成の妻)
官 位内蔵助
役 職-
城 郭黒井城(丹波国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ斎藤利三の関連文化財
斎藤利三 年表
天文3年 1534年 -月-日 1歳
斎藤利三が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 22歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 25歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄10年 1567年 -月-日 34歳
子・利宗が生まれる。
出典:-

永禄11年 1568年 4月晦日 35歳
三好長逸が、稲葉一鉄よりの音信として斎藤利三が使者として上洛し長逸に十文字鎌を贈ってくれたことについて返書を出し謝意を示すとともに織田信長への執り成しを依頼する。
出典:(永禄11年)4月晦日付三好長逸書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1400号「保阪氏所蔵文書」)

元亀1年 1570年 4月23日 37歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 40歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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天正10年 1582年 5月26日 49歳
明智光秀が居城・坂本城(近江国)より出陣し、亀山城(丹波国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(29)「明智日向西国出陣の事」

天正10年 1582年 5月27日 49歳
明智光秀愛宕山威徳院(西坊)にて連歌会を催す。参加者は里村紹巴、里村昌叱、明智光慶、兼如、心前、愛宕威徳院(西坊)行祐、愛宕大善院(上坊)宿源、行澄、行澄。
出典:『明智光秀張行百韻』(『続群書類従』17輯上)、『信長公記』巻15(29)「明智日向西国出陣の事」

天正10年 1582年 6月1日 49歳
夜、明智光秀が重臣の明智秀満明智光忠、藤田行政、斎藤利三と談合し、織田信長を討つこと決意する。亀山城(丹波国)より出陣する。
出典:『信長公記』巻15(31)「明智日向守逆心の事」

天正10年 1582年 6月2日 49歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月3日 49歳
明智光秀坂本城(近江国)に入る。大津、松本、瀬田(以上、近江国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月4日 49歳
明智光秀安土城(近江国)を接収する。丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に山崎片家を、羽柴秀吉の居城・長浜城(近江国)に斎藤利三を入れ置く。
4日の大和国より筒井順慶の一手として光秀のもとにやってきた南方衆と井手衆の一部が近江国に出陣する。光秀と順慶は一味と奈良では認識される。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

天正10年 1582年 6月12日 49歳
明智光秀が八幡、山崎(以上、山城国)に布陣する。
羽柴秀吉池田恒興とともに摂津国に軍勢を進める。中川清秀高山重友を先陣をつとめ山崎(山城国)に布陣。以下、羽柴勢は山崎から天神馬場(摂津国)に展開する。秀吉は織田信孝を待つため富田(摂津国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年月日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)

天正10年 1582年 6月17日 49歳
明智光秀家臣・斎藤利三の身柄が安土城(近江国)にて拘束される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月18日 49歳
斎藤利三が六条河原(山城国)にて処刑される。
出典:-

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