人 物 史

明智光忠 あけち みつただ
生 没 年天文9年(1540)-天正10年(1582)6/14
出 身-幼 名-
別 称次右衛門、治右衛門、二郎、二郎四郎、長間斎
法 名-
戒 名-
明智光久-
兄 弟 姉 妹明智光忠
配 偶 者明智光秀の娘
明智光近
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ明智光忠の関連文化財
明智光忠 年表
天文9年 1540年 -月-日 1歳
明智光忠が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 16歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 19歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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元亀1年 1570年 4月23日 31歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
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天正1年 1573年 7月28日 34歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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天正10年 1582年 5月26日 43歳
明智光秀が居城・坂本城(近江国)より出陣し、亀山城(丹波国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(29)「明智日向西国出陣の事」

天正10年 1582年 5月27日 43歳
明智光秀愛宕山威徳院(西坊)にて連歌会を催す。参加者は里村紹巴、里村昌叱、明智光慶、兼如、心前、愛宕威徳院(西坊)行祐、愛宕大善院(上坊)宿源、行澄、行澄。
出典:『明智光秀張行百韻』(『続群書類従』17輯上)、『信長公記』巻15(29)「明智日向西国出陣の事」

天正10年 1582年 6月1日 43歳
夜、明智光秀が重臣の明智秀満明智光忠、藤田行政、斎藤利三と談合し、織田信長を討つこと決意する。亀山城(丹波国)より出陣する。
出典:『信長公記』巻15(31)「明智日向守逆心の事」

天正10年 1582年 6月2日 43歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月13日 43歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正10年 1582年 6月14日 43歳
明智秀満明智光忠坂本城(近江国)で自害する。
出典:-

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