城 郭 史

盛岡城(陸奥国) もりおかじょう
築 城 年-
築 城 者南部信直
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称-
現 所 在 地〒020-0023
岩手県盛岡市内丸1-1-37
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ盛岡城(陸奥国)の関連文化財
リ ン ク南部利直
盛岡城(陸奥国) 年表
慶長2年 1597年 -月-日 
南部利直盛岡城(陸奥国)を築く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長4年 1599年 4月15日 
南部信直が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部信直」の項

慶長5年 1600年 9月15日 
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長6年 1601年 8月24日 
徳川家康最上義光南部利直に、上杉景勝会津若松城(陸奥国)から米沢城(出羽国)への移封に応じなければ討伐するにようにと命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長6年 1601年 8月-日 
徳川家康上杉景勝会津若松城(陸奥国)120万石を改易し、米沢城(出羽国)30万石に減封する。
出典:『関原始末記』

慶長18年 1613年 10月6日 
南部利直江戸城(武蔵国)の居る徳川家康に謁す。白根山より産出の黄金を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長19年 1614年 10月-日 
南部利直徳川家康徳川秀忠父子の大坂城(摂津国)攻めに加わるべく、盛岡城(陸奥国)を発す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

寛永9年 1632年 8月18日 
南部利直が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

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