人 物 史

南部信直 なんぶ のぶなお
生 没 年天文15年(1546)-慶長4年(1599)4/15
出 身陸奥国幼 名-
別 称亀九郎
法 名-
戒 名江山心公常住院
石川高信
南部晴政[養父]
-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者南部晴政の娘、泉山和泉守の娘
南部利直、娘(八戸直栄の妻)、娘(秋田貞隆の妻)
官 位大膳大夫、侍従
役 職-
城 郭田子城(陸奥国)、盛岡城(陸奥国)
参 考 文 献南部信直に関する参考文献
○『寛政重修諸家譜』巻第210「南部信直」の項
関 連 デ ー タ南部信直の関連文化財
南部信直の家臣
南部信直 年表
天文15年 1546年 -月-日 1歳
南部信直陸奥国にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部信直」の項

弘治1年 1555年 10月23日 10歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 13歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 25歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 28歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 -月-日 31歳
子・利直が生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

天正10年 1582年 1月24日 37歳
南部晴継が死去する。
出典:『九戸戦記』

天正18年 1590年 3月-日 45歳
南部信直利直父子が豊臣秀吉小田原城攻め(相模国)に参陣する。利直は前田利家を加冠親として元服し、利家の諱を賜り「利直」と名乗る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

天正18年 1590年 7月18日 45歳
豊臣秀吉が南部信直の本領を安堵する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部信直」の項

天正19年 1591年 3月13日 46歳
櫛引清長が苫辺地城(陸奥国)を攻める。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 6月14日 46歳
九戸政実成敗につき、蒲生氏郷勢が二本松(陸奥国)に到着する。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 7月19日 46歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英鈴木信光柳沢信俊[大久保忠世勢]、折井次忠[大久保忠世勢]、山高信直[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、山寺信光[大久保忠世勢]、小尾祐光小尾光重津金胤久跡部久清
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久清」の項、同201「中島盛直」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正19年 1591年 8月18日 46歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同173「津金胤久」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 46歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 46歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

文禄1年 1592年 12月8日 47歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 11月20日 48歳
豊臣秀吉浅野長政幸長父子に甲斐国一国を給付すること、伊達政宗、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長を与力として付すことを伝える。
出典:同年月日付豊臣秀吉判物(『浅野家文書』321号)

文禄4年 1595年 7月8日 50歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 50歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 50歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 50歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 51歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 -月-日 52歳
南部利直盛岡城(陸奥国)を築く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長4年 1599年 4月15日 54歳
南部信直が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部信直」の項

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